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[コメント] イージー・ライダー(1969/米)

アメリカの縁、メキシコ国境から始まる、アメリカの「自由」のボーダーラインを巡る映画。地上では為し得ない境界越えとしての、宗教的なるもの。天から射し込む強烈な日光による六角形のレンズフレアは、その暗喩だ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







終盤の墓地のシーンで、聖句が唱えられる中、天からの光が強調される事で、それまでの執拗なレンズフレアが象徴していたものが何だったのが理解できる。だが、既にそれまでの道中でも、ビリー(デニス・ホッパー)とワイアット(ピーター・フォンダ)が食事をご馳走になる家庭では、ビリーに帽子を取るよう促した後、日々の糧への神への感謝の言葉が唱えられていたし、「妻はカトリックなんだ」という男の台詞もあった。また、ヒッピーたちのコミューンでも、食事に先立って神への感謝の祈りが捧げられていた。このコミューンでさえ「余所者」の二人が邪険にされている事で、二人が忌避されるのは単に保守的な土地柄に於いてだけではなく、広義の「社会」から彼らが逸れ者として運命づけられているのが感じとれる。

上述した二つの場面では、祈りが捧げられていたのは食事の場面でだったが、ビリーとワイアットが向かうのも、マルディグラ(謝肉祭)。更には、娼館で聖画と出会うなど、欲望の中に聖なるものを見出す構図が見てとれる。娼館でワイアットが見つめる「人の価値は死後に明らかになる」という銘文が映された直後、ラストシーンでの燃え上がるバイクのショットが瞬間的に挿入される。思えば、あの悲劇的な結末の場面では、殺された二人の遺体は映されず、ただ勢いよく燃え上がるバイクの炎に沿うように上昇する俯瞰ショットという、「昇天」で終わっていた。

住民に殺害されたジョージ(ジャック・ニコルソン)の金を手に入れた際、ビリーは、ジョージに悪感情を抱いていた訳ではないが、「うまくいった」と歓びを隠さない。だがワイアットは「失敗だ」と呟く。ジョージという犠牲者と引き換えに、金で自由を得るなど、真の自由の獲得という意味では失敗なのであり、最後に自由の殉教者の如く二人が殺されるのは、或る意味では一つの救済でもあったのだろう。

(評価:★3)

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