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[コメント] 黒い太陽(1964/日)

多分にバタ臭い演出家・蔵原の自己諧謔を感じさせる点は『狂熱の季節』以上。もはやユーモアの域を突き抜けて凄惨でさえある。いつも‘汗’を効果的に画に取り込む蔵原だが、今回は黒人兵の黒い肌に点々と光る汗が印象的。この映画の不快さと、その批評性。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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主人公の、黒人への態度は何とも不快なのだが、それは、崇拝と差別とが、‘他者を一方的なイメージで見る’という点で表裏一体である事を批評的に描いた的確さの表れと言えるだろう。外国人など、何らかの異質な他者に向ける視線には、幾ばくかはそうした意識が忍び込んでいる筈なのだ。

自分の住み処に転がり込んできた黒人兵・ギルを匿おうとする主人公・明の行動は、言葉が通じない相手を保護しようとする、という意味で、彼が唯一心を許しているらしい犬への態度に近い。明がジャズを通じて黒人に対して抱いている親近感は、言葉の壁に煩わされない、という点でも犬との関係と殆どイコールと言える。だが明のそうした短絡思考を裏切るのは、英語を解さない彼とギルの、対話の成立しない堂々巡りや、ギルによる犬の撲殺。犬の死は、明を遂にギルへの憎悪に駆り立てるが、皮肉にも、ギルはその自分の行為への罪責感から、初めて明への敵対的な態度を緩めるのだ。この徹底的な齟齬。

そこから、明のギルへの態度は、彼にとって「黒んぼ」「ニグロ」は、ジャズと結びついていなければ犬以下の存在、奴隷でしかないという差別感情が露骨に顕わになる。ギルは、銃で脅しても食事がもらえず、空腹のあまり、犬の残飯に食らいつく。犬の方は、明が犬にジャズを聴かせようとするのを無視して餌をねだると、「レコードは後回しだ」と食べ物が与えられていたのだが。

また明は、廃墟になった教会に暮らしていながら、十字架や聖像への敬意など皆無であり、ギルの祈りの行為と好対照を成している。やはり明は飽く迄も日本人。「黒んぼ」のギルに白いペンキを塗ってピエロに仕立て、自分は顔に黒塗りをして町へ出ても、集まって来た子供たちは「ワーイ、ちんどんやだ、ワーイ」と純和風な歓声を上げる。トランペットを吹くギルの周りに集まった人々も皆、明のようなバタ臭さとは無縁の日本的な顔をしている。愛犬の墓の前で明自身、「なんみょーほーれんげーきょー、アーメン」という、何ともいい加減な和洋折衷の台詞を吐いていた。黒人をピエロ扱いする明もまた、滑稽なピエロに過ぎない。

だが、愛犬を殺したギルへの怒りに駆られながらも明は、行きつけの店にかかるジャズに体が反応してしまう。言葉を越えるものは、確かにあるのだ。また、ピエロのギルを連れて町に出れば、明の方が黒人と間違われて米兵に呼びとめられる。レコードジャケットなどジャズ絡みでしか黒人のイメージを知らなかった明だが、その彼自身が‘黒い肌’という外見によって、ギルの代わりに指名手配犯かと疑われるのだ。

明がギルと遭遇した事など知らない男達は、英語など通じなくても「ツーカー」で通じ合えると豪語するが、それを傍らで聞く明は、ツーカーなどという簡単な話ではない事を、愛犬の死によって痛感させられたところなのだ。だが同時に、ジャズという「ツーカー」に体が反応してしまう。彼は遂にギルと本当に「ツーカー」の関係になるのだが、そこに至るまでには、多くの齟齬と苦痛とを経る必要があった。ギルが、自分が望んだ青い海ではない汚れた海に絶望して、調子っぱずれの歌を歌った時、明は、レコードが再生する心地よいジャズとは違う、本当の魂の叫びとしてのジャズに遭遇する。そして、明がギルの膿んだ傷を治療してやる場面では、互いに意味が通じ合わない会話の音声は消され、ただジャズだけが流れていくのだ。ギルが明に呟く「サンキュー」の一言は、それまで字幕もない英語の台詞を断片的にしか聞き取れていなかった観客にも、意味がはっきりと通じる言葉であり、明がギルと通じあえた感動が直に伝わってくる。こうした、音と台詞の的確な扱いが素晴らしい。

ラストの、海(そして太陽)に向かってアドバルーンで飛んでいくギルの画は、画そのもののバカバカしささえ映像としてのエネルギーに転換してしまったかのようで、何とも驚かされる。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)太陽と戦慄[*] ギスジ

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