[コメント] トーキング・ヘッド(1992/日)
映画は、今から四百年前にすでにシェイクスピアの手により極まってしまっていた演劇というメディアに取って代わるべく登場した。草創期の映画を支えた観客は都市にあって工場で働く労働者達。産業革命の申し子、日々機械音の中で暮らす彼らの感性が、テクノロジー以前のメディアである演劇が提供してくれる深い人間洞察よりも、一秒数コマのフィルムの中で非人間的な動きを繰り返すだけの機械人形達がもたらす驚きに共鳴したというのが、映画というメディアの始まりだったと言える。つまり映画は、演劇とまるっきり反対の指向性を持たされ生まれてきたのであり、同じく演劇以後に登場してきた小説に求められるような物語性は端から目的外であったということになる。
しかし、機械人形達のダンスが飽きられるまでに、そう時間はかからなかった。人間洞察の深淵を持ち合わせずに、驚きだけで勝負してきた映画は当初から必然的に、その驚きを更新する義務を持たされていた。そしてその義務故に、映画は逆説的に物語を必要とした。
だとすれば、映画にあって物語は、そもそも目的そのものではなく、目的のために必要な道具=記号であったということになる。人間とともに誕生してくる物語ではなく、フランケンシュタインの如く捏造される記号=まさに口が語る物語ではなく、頭が語る物語であったということだ。
しかし、物語が記号でしかないならば、記号でしかない物語に何の価値があるのだろう? 画は、必然的に、自らが織りなす所の物語に関する自問自答を始める。けれども、その自問自答は絶対的に当初のルールを覆すことができなかった。そのルールを覆すことは自己否定に他ならなかったからだ。
かくして映画は、自身の物語を深めつつ、同時に、記号の中に押し込め続けているのである。誰のために? ただ観客のために、観客とのダイアローグを尊重するが故に。
ここに映画と映画作家の悲哀がある。小説は作家のものであればいい。演劇は人間のみを描くための媒体であり、その限りにあって、作家のものとできる。何より両者は、莫大な制作費を必要としない。ところが映画は、常に人間洞察とは別次元の驚きを求められ続ける。そして他人様のものである莫大な制作費を取り返すことを要求される。そのために常に❝お客さん❞の存在が念頭となる。
作家は、映画固有の苦悩を持たされる。この物語は客にとってどれ程の価値があるのだろう? 客にとって価値があったとして、自分にとってはどれ程の価値があるのだろう? これはいったい誰のための映画なのだろう? 俺はいったい誰のための映画を撮っているのだろう? 俺はいったい誰の映画を撮っているのだろう? 俺が撮っているこの映画って本当は誰のものなのだろう? 本当は誰が撮っていることになるのだろう?
映画作家とは、何と矛盾に満ちた言葉なのだろう。人に見せるため、人の金で撮ることしか出来ない映画というものに関して、作り手は監督たりえても作家たりえはしないのだ。
演出家としての務めを果たそうとすればするほど、純粋に演出家たらんとすればするほど、その演出は自分だけのものでなくなる。この『Talking Head』はそんな映画作家の普遍的なジレンマを物語としている。
なお、題名である『Talking Head』の複数形、すなわち [talking heads] は、主にニュースやドキュメンタリー番組などで取材を受ける者等“ただ喋り続ける被写体”、或いはそれらを淡々と映し出すシーンを指す専門用語だそうです。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (3 人) | [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。