[コメント] スターシップ・トゥルーパーズ(1997/米)
子どもの頃、蟻やバッタの足をちぎってみたり、おたまじゃくしや蛙、毛虫を捕まえては踏み潰したりしたこと、皆さんのほとんどがおありではないだろうか?でなくとも、ゴキブリなんかを叩き潰すと、黄色い膿のような液体がグジュっと滲みでてきて、「虫って、ほんとカンタンなモノでデキてるなあ」と思われたことはないだろうか?
ところが、祖父母や肉親、人間でなくとも、飼っていた犬や猫でなくとも、金魚やザリガニでも、その死に対峙するとき、その死に伴う痛みを分け与えられ、殺生に対して矛盾を抱えた嫌悪感を抱かれたことはないだろうか?(ないかもしれないな…)それは、その死を迎えたものたちが、「フクザツなモノでデキて」いたからだろうか?
「一寸の虫にも五分の魂」、フクザツとカンタンを分けるのは「魂」が見えるか見えないかなのだろうか?
はて?
「人間はこれまでありとあらゆるもの卑俗化したが、たったひとつ、死だけは、完全に卑俗なものにすることを成し得ていない」、と言ったのはハックスリーだった。ひとつ、この映画が成し得たことは、死の卑俗化かもしれない。
いや、バーホーベン以前、もうすでに、死は「痛み」や「畏敬」を伴う現象や儀式から引っ剥がされている。「バイオ・ハザード」なんか見ると、それはもう明らか。
実感のない死、軽薄な死、ゲーム化された死、痛みのない死、匂いのない死、「漂白」された死。
それらは、戦争がもたらす「結果」なのだろうか?「戦う」ってのは、そういうことなのだろうか?
はて?
いや、「バイオ・ハザード」やこの映画が悪いと言っているわけではない。正直、別にどーでもいいし、いろいろ考えるのも野暮なのは承知している。ただ、どちらもあまり僕の好みでもないし、諸手を挙げてお迎えしたくないことは確か。
あえて極論を言わせてもらえれば、かつてネットで流れた地下鉄サリン事件や阪神大震災を舞台にしたゲームと、この映画『スターシップ・トゥルーパーズ』、それぞれにおいての「死」は、事実に基づいているか否かという違いしかない。
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