[コメント] 暴走機関車(1985/米)
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個人的に私は脱獄映画が好きで、それはなぜかというと、第1に単純明快であること(言い換えると余計な要素が排除されること)、第2に脱獄にかける執念深さに個人のドラマが見出されること、第3に脱獄を通じた協力関係に友情関係に近い集団ドラマが見出されること等が理由に挙げられる。
大概、それは囚人たちのドラマである。そして、そこでは看守ないし所長は、冷酷、無気力、生命力の感じられない無気力的な存在として描かれる。しかし、本作のランケン所長は違う。一味も二味も違う。ランケン所長は、生命力がみなぎった熱い男(オヤジ)である。マニーの脱獄の事実を知ったとき、「あいつ、やりやがった」と悔しそうなセリフを吐きつつも顔はにやけづく。そして彼は神に祈る。「神様、どうか奴を殺さないでください。俺が殺します」と。ランケン所長は、マニーをヤリたくてたまらないのである。ランケン所長は、言わば、マニーという野獣を狩るハンターである。さらに言うと、マニーが執念深いオヤジであるならば、ランケン所長は、粘着馬鹿丸出しのオヤジである。
彼らオヤジは、互いが憎悪の対象である。そしてそうであるが故に、彼らオヤジの生に互いのオヤジが不可欠な存在であるという特殊な関係を有する。だからこそ本作は、囚人VS所長という第4の対立のドラマが見出される。故にタイトルが「トムとジェリー」みたいに「マニーとランケン」でもおかしくはない。
マニーは、自由を求めて脱獄する。その自由とは、ランケン所長からの自由である。それ以上でもそれ以下でもない。そしてそれを完遂した時、彼に残された人生の意味は、何もない。第2の人生を送るには、彼はあまりに年を取りすぎているからである。一方、ランケン所長は、どうか。ランケン所長は、マニーをヤリたくてたまらない。そのために手段を問わない。そしてそれゆえ所長も機関車同様、狂ったかのように暴走する。この暴走所長にとっては、彼をヤルことに生の意味を見出しているようである。そして、マニーをヤルことは、同時に彼の生が完遂したことを意味する。
とすれば、本作に登場する暴走機関車の意味合いは深い。すなわち、まず、暴走機関車は、監獄と同様、囚人マニーを閉じ込める。そして、その到着地のない暴走は、彼の人生を急速に進める。すなわち、監獄内では、マニーの人生が、緩慢に過ぎ去るのに対して、暴走機関車内では、マニーの人生は、敏速に過ぎ去る。そしてそれは、到着地のない、死へと敏速に向かっていく。そして、死へと向かうそのまさに直前に暴走所長も俺が奴を殺すのだと言わんばかりに乗り合わせる。故に暴走機関車は、彼らの人生を終点へと向かって加速させる非情な孤立空間であるとともに、執念オヤジと粘着オヤジとの熱気が最高点に達した彼らの有終の場でもある。
マニーは、暴走所長との決闘の末、暴走所長を暴走機関車内に閉じ込め、自らは、自由を体現するかの如くその孤立空間の頭上に屹立し、死の終着点に向かう。その姿に、胸が熱くなるとともに虚しさをも感じる。本作は、熱気と虚しさに包まれたオヤジ達の対立劇の傑作である。
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