[コメント] 私の愛情の対象(1998/米)
人と出会って好きになって、嫌いになって別れたり、映画はそのどこを切り取るべきなんだろう。映画の主人公が愛想をつかして別れた恋人は、スクリーンから退場したらただの悪者のままその存在ごと消え去るんだろうか。そもそも主人公って何だろう、ドラマチックな出来事があった人が主人公なんだろうか。なんてこと考えてたら映画なんて愉しめないんだけど、典型的な脇役が出てくる映画ってなんか違うんじゃないかと前から思っていたので、このハリウッド映画の展開は新鮮だった。
ヒロインが冒頭でいかにもツマらない、無個性で地位だけは立派な男性とつき合っている設定の映画はまず疑ってかかる。もちろんその映画のチラシやポスターでヒロインが抱き合ったりしてるのは別の男な訳で、途中から本当の運命の男性が現れてそっちを好きになるってのは観る前から分かり切っているのだが、それにしても元彼を“運命じゃない、退屈で邪魔な男”ってだけの役割・扱いはヒドすぎやしないかとひっかかってしまうのだ。彼らだって生きてるんだから。(以下の映画が好きな人には申し訳ないのですが『シティ・オブ・エンジェル』『ジョー・ブラックによろしく』などの映画に対して自分はそう思いました)
本作のヒロインもそんな退屈でネチっこい男と冒頭でつき合っている。彼女はゲイで相性ばっちりの男性と出会い、彼と過ごす方が楽しくなり、そのネチネチ男に別れを切り出す。男は激怒して「もう二度と会うことはないからな!」とお決まりの捨て台詞を投げつけて憎々しげに退場。彼女の新しい同棲相手がゲイの友人である事を除けばよくある展開だ。
でも彼はその後も生活していた。ヒロインが新しい生活を送るなかでいろいろ喜んだり悩んだりしていた間、彼も彼なりにいろいろあったんだろう。長い時間の後、偶然元恋人と再会し、彼女が何か辛そうだったら昔の怒りなんて解けてしまうんじゃないか。恋愛映画的にはもはや用無しな存在でも、これが本当の人生だったらまた彼女と仲直りして友人として普通に関わっていくんじゃないか。彼が中盤で再登場した時、なんだかハッとした。ああ、本当はこんなもんかもしれない。
彼女もゲイの友人も、その後もいろんな人たちとそれぞれ出会っていく。困っている彼女を家まで親切に送ってくれた通りすがりの警官。ほんの一瞬だけど、彼女が自分へ礼を言うのも忘れて同居人の元へ泣きながら駆け出して行った時、その警官がクスッと笑いながら2人がドアの中へ消えていくのをしばらく見つめているシーンがある。さりげないシーンだけど、そのとき彼はただの“主人公が出会った脇役”ではなくて、まるで家に帰ってから「そういや今日こんな人がいたよ」と誰かに語ったりしてる様子を想像できるような、ちゃんと生きた存在だった。
どの人物も主人公のドラマを盛り上げるためだけに登場して来ない。みんなただ出会って好きになったり別れたり選択を迫られたり、つまり普通に人生を生きてるだけ。カメラはそれを優しい目線で切り取っていくだけ。よくあるハリウッド製のラブコメディみたいに明確なゴールなんてない。スクリーンに映る前から生きていたし、映画の幕が降りた後も生きていく彼らの姿がそこにあった。
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