[コメント] ニンゲン合格(1998/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
別に書いたが(『あ、春』review参考)、この映画での視線は冷静そのものだ。例えば意識を取り戻した主人公の青年が、病院から連れ出されるところ。嫌がる青年の気持ちは、みる側に伝わるように演出されない。10年も記憶を持たぬ青年に、映画の視線も感情移入できないのだ。青年は一から関係を作り直していく。ただ少年時代の記憶をたよって。だから、時にあまりに青年の行為は子供っぽい。でもその何気ない行為が本質的なのはこちらに判る。人との、世界との関係をもう一度組み立てていくこと。何のため?いやそんなことってそんなに大事なことなのだろうか?
彼をはねた中年の男、あるいは、妹の恋人である青年。彼らは、生きることの意味に答えを出してしまっている。自分が負けた、不幸だという枠組みで生きている。もちろん普段、僕たちはそういう感覚で生きてしまっていいるのだが。
10年も意識を失い空白の記憶しかもたぬ青年。もちろん人生で大事(?)な10年を失っているわけだから、青年を世話する男(役所)が、映画の冒頭で、今から少しでも取り戻せばどうだ、という質問する理由はわかる。だが青年は何を取り戻すかも判らないのに、取り戻しようがない、という。
だが映画を見終わった僕たちは、青年が何をしたかを、知っている。例えば馬との関係、店、そして家族とのつかの間の出会い。離ればなれだった家族も、一瞬家族であることを取り戻す。ただしその時父親はブラウン管の中だが。
一人の青年がそこにいることで、様々な意味が様々な角度から生起した。それを僕らは知っている。彼をねたむ彼をはねた中年が、青年のつくった店を壊しても、それがどれほどの意味があるのか?青年は、また別のことを最初から始めるだけである。「俺はどこかから来て、またどこかに行く」という言葉を残して。
存在・・・。この映画の最後に、青年が死ぬときにはじめて存在への問いが浮上する。もちろん彼は「立派に存在した」。でも、僕らは存在の意味は彼の生の様々な場面にこそあったことを知っている。彼がたまたましたことが、意味を生み出したことを、僕らはしっている。死は問題ではない。今僕がいて、何かがあって、ある場面で意味を生み、そこにもしかしたら「存在」があるのかも。(ほんまかな)だけど、そんなことは生きている今に関係ない。今はただ何か関係をつくっていくことだけが問題ではないのか?
だからこの映画は、黒沢明の『生きる』と同類の存在論的、実存主義的映画だと解釈するのは反対です。それとは近いテーマだけど、答えは全然違うと思う。どうでしょうか?もちろん僕が共感したのはこの映画の方です。
ややこしいこと書いてすいません。でも難しい映画じゃないです。それに役者がみんないいです。主人公の西島さん、妹役の麻生さん、お父さん、お母さん役、みんないいです。
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