[コメント] 永遠と一日(1998/仏=伊=ギリシャ)
映画を見終った人むけのレビューです。
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人間弱ると繊細になるもの。それをまず娘の家を売った事で、人が人に対して今まで見えづらかった違った面を繊細が故の見てしまう。それが「人生は美しい」を検証する物語のスタート合図であったように思う。
社会の歪んだ構造が人間が持つ内面と外面を分裂させ互いに乖離し始めるという様を、亡命に例えたのだろう。それは難民孤児を人身売買で金持ちにさばき儲ける人間と、無を強いられ商品として生きることを選択させられた犠牲者であり、何度拭いても曇ったフロントガラスでしかない車に又は社会に集まる子供達と、曇ったフロントガラスを磨かず前に運転する人々に再現してあるように見えた。
世界各国に点在する地域紛争を見て見ぬ振りをし、そこから生まれる難民と孤児たちへの手の差し伸べ方のぎこちなさが目立つ社会に対しての強烈なパンチが幾度となく出される。が、それを映像と緊張とセリフという詩で映画に仕立て上げたアンゲロプロスの見た答えは「人生は美しい」だったのが印象的でホッとし、共感した。
アレキサンドレは「私は何一つ完成していない。あれもこれも下書き。言葉を散らかしただけだ」と語ったところで少年と出会い、少年の「コルフラ(=私の花)」という言葉でアレキサンドレは下書きを完成させていく。少年と接する事で『失われた言葉』が次第に妻との過ぎ去った日々だと知り、妻と戯れた海が見える場所でそれが『永遠と一日』だと分かる。
バスの中、詩人ソロモスにアレキサンドレが「明日の時の長さは?」と問うも返答無し。無言だった詩人ソロモスに対して答えをだしたのは、妻であった。「永遠と一日」と。
詩人が言わず妻が言ったところに意味がある。それは妻との日々の偉大さを示したのと同時に、詩には文字には答えがないことを表し、もっと目を外に、19世紀に生きた詩人という離れた対象だけじゃなく身近な対象に向ける事の重要性を説いている。で、アレキサンドレは打ち寄せる『永遠と一日』『人生は美しい』という言葉の波音を聞きながら少年にバトンを手渡し身を引いてゆく。人と人の繋がり、死ぬ人と産まれる人、生きる人の繋がりが映像詩で描かれている。本当に心が澄み始める感情が沸き立ってくる素晴らしいラストであった。うん、人生は素晴らしい!
2002/9/22
[追記]
私は、黄色いレインコート3人が出てきた瞬間『雨に唄えば』を思い出した。同時に『雨に唄えば』が描いた話の内容を思い出した。そこに答えがありそうだと、おぼろげに思ったた。
『雨に唄えば』はサイレントとトーキーの狭間、サイレントで生きた人間がトーキーで生きられるとは保障していない、いわば時代の変革期をタップのように軽快なリズムで描いた素晴らしい作品だというのは揺るがない事実。では何故この作品に登場したのか?だが、それは港で少年が海を航海する事、とどまって死に往く事の暗示だから。一人は進み一人はとどまる。まさにそれは、トーキーという船で大海に漕ぎ出でる人々と、サイレントと言う港でとどまって死に往く人々。
そして、自転車に乗って前に進む3人というのはドン(ジーン・ケリー)キャシー(デビー・レイノルズ)コスモ(ドナルド・オコナー)なのだが、この3人は言うなれば『永遠と一日』を体現した理解した「牛に引かれて善光寺参り」の牛だと言える。
自転車は人力で動く乗り物で、人力系自転車と動力系自動車バスの違いが、自分の力で前に進む事、自分の力で答えを見つけだす事の重要性を示している。バスは停留所で止まらなければいけないし、動力系の乗り物は燃料が無くなれば止まらなければならず、分断が生まれ自分で歩く事を拒み思考を停滞させる力の象徴。それが自転車がバスを追い抜いていたところにハッキリと現れていたので「ムムムムム!」と私はなった。
アレキサンドレの登場場面に自動車などの動力系乗り物が出てくるが、後半は減っている。これはアレキサンドレが「明日の時の長さは?」の答えに急速に近づいていった事の現れであろう。自分の力で自分の妻との記憶を思い出す行為が「牛に引かれて善光寺参り」の牛の影響であったと言える。
2002/9/25
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