[コメント] ワンダフルライフ(1998/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
人生についての映画である以上に、映画についての映画であることはあきらかで、劇中の煉獄的な場所の、細部に至るまでの設定なりなんなりが、全て99年当時の歴史的な事物として妥当な形で配置、配分されてあることもそのことを支える。
単なる記録でもなければ単なる記憶でもなく、あるいは逆にまた客観的な記録ともなれば主観的な記憶ともなり得る、そのあわいにあるものとしての「映画」。
井浦新は20代の若者の姿をした75歳の老人を演じていたが、存在と現象との間にあるその肖像は、そのまま実在の役者が架空の人格を演じる役者という存在そのものの謂いともなる。
見事にほとんど半分以上は廃墟の様にも見える建物やそのまわりのロケーションには、俗世と同じ様に晩秋の落ち葉も積もれば、初冬の湿った雪も降る。(役者がその落ち葉を拾い集め、雪を踏み荒らし蹴散らす。)階段を歩いてあがっていく足並のショットから始まる映画は、その世界が決してイメージだけの曖昧な場所ではないことを示す。井浦新演じる若者とその彼が見詰める者達との切り返しは、そのまま映画と映画を見詰める者との切り返しともなる。そして映画は、皆で同じ画面を見詰めながら、同時にそれぞれがそれぞれの中で見出すものでもある。(最後に劇中の登場人物達はそれぞれにそれぞれのものである筈だろう「完成品」を、しかし劇場で皆でいっせいに見る。)
ふと、もし生まれて間も無く死んでしまったか、あるいは死んで生まれて来たような人(幼子、赤ん坊)がいたら、その人はどうなるのだろうとも想像したが、あるいは小田エリカが演じている女の子は、そんな子だったのかも知れず。
たとえ幸福な瞬間であれ、その一瞬と永遠に添い遂げなければならないとすれば、それは天国でもあれば地獄でもある。即ち覚悟のいる話だ。
「自分の人生に対する責任の取り方」と言う若者もいる。それも飽くまで、個的に(孤的に)なされるものでしかない。ひとが最後に向き合うことになる(向き合うべきである)のは自分自身で、それ以外ではないということを知っている。
恐らく演者の中にはプロの役者ではない人も多くいて、たとえばパイロット志望だったらしい男性や「赤い靴」の女性は印象的だったが、その人達が自分の思い出をスタッフに伝えようとする時には、束の間の演出家になっている様にも見えた。そんなものを見てしまうと、「映画」の本質にはやはり「想起」があるのだと思わされる。
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