[コメント] 欲望という名の電車(1951/米)
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舞台の映画化は一歩間違うと大変なことになるように思うのだが、この『欲望という名の電車』は舞台の良さと、それに加えて映画の良さを的確にミックスした、まさに名作と呼ぶに相応しい映画だった。
冒頭、「欲望」という電車に乗って、混沌としたニュー・オリンズの街に降り立つヴィヴィアン・リー。彼女が、困惑気味に街を徘徊するシーンを見ているだけで、妙な説明なしに映画の設定がわかってしまう。雰囲気作りが見事。こういったシーン作りの巧さはまさに映画らしい部分でもある。
逆に、舞台らしい部分での巧さが光るのが、脚本であろう。台詞の表現がひとつひとつ魅力的である。それが象徴的に表れているのが、間違いなく“欲望という名の電車”という比喩も込められたタイトル。“A Streetcar Named Desire”という原題も、邦題もともに見事なタイトルだと思う。会話が中心となる物語、台詞が活きていたのはやはり大きかった。
そして、一番見事だと感じたのは、“対比”である。都会と田舎、貴族と庶民、男と女、姉と妹、そして役柄においても演技においてもマーロン・ブランドとヴィヴィアン・リー。
この映画の構成は、中心で描かれていたヴィヴィアン・リーが、中盤から突然狂っていると見る側も感じるようになっているため、構成に欠陥があれば、終盤はついていけなくなる観客がいたように思う。だが、そうならなかったのは、物語の構成が見事な対比の上に成り立っていて、実はそちらを中心に映画を見せていたからなのだろう。
何をとっても正反対のマーロン・ブランドとヴィヴィアン・リーの迫力の演技を中心に、物語上の対比されるべき要素を重ね合わせていった。どちらのキャラクターもダメな部分も多いが、憎めない部分もある。かつて教えていた生徒の話を優しい眼差しで話すヴィヴィン・リーや、男臭く「ステラーーー!」と泣き叫びながら恋人のキム・ハンターに許しを請うマーロン・ブランド。こういう描写があることで、やはり厳しい目を向けにくくさせるのだ。
ラストシーン、ヴィヴィアン・リーを可愛そうに思いつつも、ここまでの精神的な痛さは救いようがないとも思う。マーロン・ブランドを酷い男と思いつつも、正しい選択をしたかもしれないとも思う。誰にも止められない「欲望」という電車に乗った人々の複雑な感情を、映像が全編通して伝え続けてくれた映画だった。
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