[コメント] 橋のない川(1992/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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背後が小山の田園の村。明治41年。旗立てた集団通学風景。タイトルに反して、山裾に村へ通じる橋が架かっているのは何故なんだろう。藁ぶき屋根の家々。中村玉緒と大谷直子は藁を整えて草履を編んでいる。この草履づくりはたいへん細かい描写がある。
誠太郎と孝二のふたり兄弟が主役。誠太郎、出生の悪口云われて喧嘩、校長に立たされる「なんぼ直そう思てもえったは直りません」。新平民は40万人。「皇族華族がいるのに四民平等か」と生徒が問うて先生が困っている。この悪役の先生は、どうせわしら新平民やと主人公が批難すると「陛下様が新平民に引き上げて下さったのに」と誠太郎を突き飛ばす。天皇制、貴族・階級制が不平等を生む元凶であるとの視点が強調されている。
稲刈り。地主は加茂さくらに報酬を手渡さず裏口の門に置く。この家の亭主は日露戦争で戦死している。「勝ったのは天皇陛下、負けたのはおとっつあん」と大谷。「わしは天皇陛下より長生きすると決めている」と玉緒。天皇崩御で日の丸立てているのは別の意味だったのか。「えった虐めたら太鼓叩いて攻めてくるで」。村が火事で消防団は途中で進むのを止めてしまう。「ぜんぶ焼けたらええんや」と見物人。
夜に学校に集合して宮城に向かって黙祷。孝二の手握るマチエちゃんの件は今井版で印象的だった。本作にもある。本作では男友達から伝聞で確かめる。夜になると蛇みたいに手が冷たくなるのか確かめた。孝二は彼女を平手打ちにして、家に帰って熱を出す。 乃木大将辞世の句を詠んで泣く校長、笑う生徒に殴りかかる。
一緒のバケツは使えないという生徒が先生に「先生はえったと一緒に風呂に入らはりますか」。先生答えて曰く「風呂とバケツは違う」。生半可な啓蒙意識の限界描写だった。白人は黒人と、陸上競技は一緒にできても水泳はできるか、という論点が想起される。
集落でも消防ポンプを買って操法大会の描写もあるが、今井作の伊藤雄之助のような人物は前後におらす、ここは断片。川の対岸の提灯を落とす競争。優勝旗渡せるかと取り合いになり、村長の裁量で優勝旗は焼かれる。「わし、忘れへんで」と孝二。
別嬪柏木先生吉宮君子が自殺なんて「普通の子にはできないことだわ」とふっと口走る。理性的な人と思っていた子供らは傷つく。彼女の件は辛いことだった。信頼したい人が差別について無感覚と知るのは辛いことだ。
辰巳琢郎は脱獄囚の暮らしに疲れた、丑松でいる訳にはいかないと語る。米騒動、大阪で米屋に奉公の誠太郎杉本哲太の処へ大杉漣らが突入、云い値で売ると警官が来て売るなと云い、米屋が米売って何が悪いと追い返している。
ナナエの娘時分伊藤麻奈、一緒に川に入っていて怒って孝二を三つ編みの髪でぶつ件が妙にエロチックで東陽一の趣向が出ており印象に残る。成長した高岡早紀も可愛い盛り。「うち、水平社宣言と結婚するん」。マツエとナナエが少しややこしいのは欠点だろう。
尊い人間も卑しい人間も存在しないと孝二の渡部篤郎は講堂で反対演説をする。杉本哲太が軍隊から帰ってきたら日の丸の旗が折れる。ちょうど良かったと玉緒が云う。大日本平等会の設立大会に辰巳が乱入し、水平社への参加を呼び掛け、色紙のビラが二階席から撒かれる。文盲の玉緒が水平社宣言を抱く。終盤は駆け足気味でもあるが、ひとつひとつの断片が重い歴史を背負っている。
今井版と東版の違いは全解連対解同だったらしい。「映画で学ぶ被差別の歴史」(中尾建次 解放出版社)では両作品の差異が比較されている。見比べる機会を設けたいものだ。全解連側の意見も読みたいところ。長いけど、まず原作も読みたい。しかし、撮影妨害の黒歴史は困りもの。野党共闘の時代なのだから、仲良くやってください。
画が全体に明るく、前衛的な弦楽器と笛によるアンデス、ウルバンバ風の音楽が、主題を別の文脈と共振させる効果を上げている。東映。製作ガレリア・西友。生駒トンネルの工事現場が潰れて工夫に被害が出ているのが記録されている。
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