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[コメント] 間違えられた男(1956/米)

劇性を誇張する作家であるヒッチコックが、図らずもリアリティ演出の限界を示すこととなったSO-SO作品
junojuna

ストーリーテリング上のクライマックス感に欠けるエセリアリティ作品である。この出来栄えではただ単に物語のモチーフを実際にあった事件に求めているだけに過ぎない。ヒッチコックの背伸びが届かなかった寸足らずな作品であった。劇性を誇張する作家であるヒッチコックは、映画特有の省略の技術を物語の論理性に還元することを第一義とする。そこで何が省略されているかというと、人物たちの逡巡や惑いといったおよそ効率的なものからかけ離れた感情である。ヒッチコックの映画ではいつもこの人間の感情というものが欠落しており、その埋め合わせを人物のポーズに象徴として表示するのにとどまる。しかし、そのポーズに内面の描写を求めようとすればするほど、仕草の表示が誇張されあまりにも記号的で即物的なものとしか映らないためドラマが要請するところのポエジーが生まれない。素材を巧みに料理する技術のプレゼンスには富んでいるのだが、余白に染み入る抒情性がないのだ。そこでこの作品だが、ヒッチコック自身が冒頭に登場し、本作をシリアスな物語として見ることを要求する。さらに、多くの批評家が語るところによれば、カトリック教徒としてのヒッチが、より宗教的な要素にイメージを求めようとするシーン演出(ヘンリー・フォンダの持ち道具としてロザリオが印象的に描かれる)に新たな境地が生まれているという。その点でいえば、フォンダが息子と親子の絆を確認する会話シーンなどにも、人間の感情にスポットをあてようとする試みが成されている。しかし、そうしたシーンへの取り組みも、フォンダの妻が夫への疑念をぬぐいきれず、精神に支障をきたしてしまうという一連のシークェンスにおいて、あまりにも感情の欠落した効率的なポーズ演出となっているところに、やはりヒッチコックがリアルな感情を伴う人間を描けないという限界を露呈している。ゆえにリアリティ作品であるという演出上の要請の帰結が、あくまで物語のモチーフだけにとどまったという至らなさに尽きる。終ぞヒッチコックは人間を描けなかった、というか描かなかったのは、ある意味、作家のリアリティであり、その姿勢こそが巨匠たる証ともなったが、彼の映画ならびに作家としての評価においては、限定つきの巨匠という枠を超え出ない。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)煽尼采[*]

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