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[コメント] 惑星ソラリス(1972/露)

何故、人は事象を認識しようとするのか? ソラリスの海は認識を事象としただけなのに。(長いス)→
るぱぱ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 本当に正直なところを言うと、私にはクリスがハリーを愛していようといまいとどうでもいい話でした。それが些末だとか、意味がないとかではなく、それ以上に重要な問題が横たわっているとずっと感じていたからです。

 それは話の展開順にも現れているように思えます。一見クリスとハリーの愛憎劇が中心に置かれているように見えますが、前半多くの時間が割かれているのは「赤ん坊を見た」と主張する証言記録のビデオです。ハリーがそれとして登場するのはかなり後。ビデオの概略はこうです。「本人は絶対に見たと言い張っている。だが本人以外の人間に認識できないモノは“幻覚”である」(“ ”は日本語訳引用以下同)

 全ての話はこの骨格の上に乗っています。クリスとハリーの愛憎劇は、HAL9000の反乱エピソードに同じく「抽象的な主題を際だたせるために設定された具体的なエピソード」に思えます。もちろん前述のように、些末だとか、意味がないということではありません。では何がそんなに気になるんでしょう。

 もちろん「ソラリスの海」です。クリスが、いやステーションが最初にソラリスの海の上空に浮かんだ時から、人は海から「どう見られて」いたのか? X線をあてられた海は「お客」を送り、クリスの脳電図を送られた後、島を作り始める―これは(何を意味しているかではなく)どういう反応(行動)なのか?

 「海から見て、人の認識しているモノは事象も事物も観念も、全ては同一のモノ=エネルギーの異なる形でしかない」  故に、“それ”が“幻覚”か実体か―には意味がなく、ひいては我々が親しんでいるこの世界すら、全てはただ我々が共通に「認識」しているだけの「現象」である。―私にはそう囁いているように感じるんです。

 海は思考を持つ全体としての存在であり、方や人は“各人各様に人間”という個体です。“彼らはいつも夜くる”のは、人が夜、個体や事象の制限から開放されるから。それは「夢を見る」ということかも知れません。人から見た“記憶”や“良心”、夢や想像といったモノは実体のないものです。でも全体としてのみ存在し、個としての実体を見せないソラリスの海から見れば、「実体があるかないか」には意味がなく、必要があるならば実体化すればいいだけのものなんじゃないんでしょうか。

 海は、個の持つ「観念」を、等しく認識できるよう実体化して差し出し、クリスはその「実体としての観念」を愛します。だからこそクリスは“人類愛をはじめて実感”するのだという感覚を得たんだと思うんですね。観念のコピーとしてのハリーはやがて自我を持ち始めますが、これは「個の確立」に他なりません。言い替えれば、ソラリスの海はまず「個」を産んだのだとも言えます。そしてラスト、クリスの愛する故郷を作ります。これは“島”ではありません。「世界」の一部です。

 ここで「うわー海だったのか。おっかねー」と言ってしまったらお終いです。そこにある故郷は、事実、地球にある故郷ではない―という意味において、クリスの“幻覚”ですが、ひざまづくクリスは、明らかにその世界を受け入れており、現実であるとか、そうでないとかという地平を超えて、「世界」はそこに成立しているのです。

 翻って、私達の認識しているこの世界も、実は非常に脆弱な観念から作られているモノかも知れず、もし、そうであるならば、観念たる愛情に満ちあふれた世界を実体として作ることもまた可能なはずです。そして、それこそが“人類愛”だと思うんですわ。

 友人は原作を読まなきゃいけないという強迫観念に駆り立てられているようですが、それよりも宮沢賢治「春と修羅 序」を丹念に読んでからもう一度『惑星ソラリス』を見たほうがてっとり早いと思います。

 間違いなく、万人のために作られていない、観念的SF映画の巨塔。

(評価:★5)

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