[コメント] 白痴(1999/日)
原作者・坂口安吾の父親は、新潟県の憲政本党の衆議院議院として、 県会議長を務め、新潟新聞社長などを歴任。五峰と号して、 漢詩人としても活躍した。
そして、手塚眞氏の父親は、手塚治虫。漫画の天皇と呼ばれるほどの 御仁であることは、周知の事実だ。
安吾や眞氏にとって、父の存在はなんだったかと問えば、 〈コンプレックス〉だった、と答えをだすことはたやすい。 だから、眞氏が偉大なる父を持つ息子の抱える苦悩として、 安吾の小説・エッセイに共振し、原作に選んだのかもしれないし、 あるいはこの白痴の主人公・伊沢の職業が文化映画の 演出家という設定が、ただ気に入ったのかもしれない。
話は横道に逸れるが、安吾が若者たちを年代を問わず魅了し続けるのは、 彼のコンプレックスがそうさせるのでないか? と、 最近、ふと思った。いや、安吾にコンプレックスなんてない、という 人もいるだろう。しかし、彼の本を、特に弱った時に読んで、 背中を押してもらえるのは、彼が強者一辺倒の人間ではなく、 弱さを抱えているからとしか思えない。ただの父権をかざす人間に、 若者は甘えるだろうか? 反抗するだけに決まってる。
安吾のデビューは25歳だが、それから泣かず飛ばずで、 流行作家としてもてはやされるのは、40歳を過ぎてからである。 私は、京都に旅立った以降10年の間に、安吾がコンプレックスの ベクトルを違う方向へ向けたのではないか、と考えてる。 つまり父(権力者・金持ち・子どもを持つ親)を、徹底的に否定した 10年だったと思うのである。そう考えれば、安吾が家も女も茶碗も所有した くないと異常なまでに固執したことが、理解できるではないか。
さて、映画の話に元へ戻せば、眞氏は、まだ父をひきづっているのでは? と思えて仕方がない。漫画家はおろか、小説家、シナリオライターを 凌ぐ、天才ストーリー・テーラー(治虫氏)に、物語で対抗したって 勝ち目はないのである。ビジュアルで、全部押し切ってしまえば 良かったのではないか? 小説(物語)をちょこちょこ小出しにすれば、 安吾ファンとして、バカにしているのだろうか? と腹が立つのは当然なの である。眞氏にとって、物語を否定することが、コンプレックスの ベクトル変えなのではないかと思う。ベクトル変えという言葉が可笑しければ、凹も次元を変えれば、凸になるのである。
誰しも、コンプレックスはあるもの。それに引きづられるのではなく、 どうにかコントロールできれば、迷路から抜けだせると思うのだが、 それが簡単にできないから、迷路なのですよね。
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