コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 鏡(1975/露)

羊水に浸された記憶、その黒い深海。白濁の記憶の波は、青い河を溯る。やがて、たどりつくは、詩的言語の翠の泉。そして、体温のような風が吹き、水面が揺れる。最期に訪れるのは、残酷な救い。
muffler&silencer[消音装置]

初見。だが、僕は眠くならなかった。眠くなるどころか、ドーパミンやら、ノルアドレナリンやら、セロトニンやら、僕にはワケもわからない、ありとあらゆる神経伝達物質が、ドバドバーっと洪水のように分泌された感覚。最後はオビオイドまで過剰分泌されたのか、観終わった直後は幽体離脱したみたいに、フラフラだった。

しばらくして思い出したのは、同じくロシアの映像詩人ユーリ・ノルシュティン監督の『話の話』。《夢幻想》と《現実》が交錯し、さらに、《記憶》がその《時空》にからみつき、錯綜するという形態の類似性もさることながら、この『』も、僕が『話の話』の拙コメントにて記した「羊水に浸された夢の記憶を呼び起こす」映画であると言える。

しかし、この『』は、『話の話』よりも、観客にとっては、より「不安」を懐かせる映画だろう。「物語性」が崩壊しているというよりも、これは「不成立の中で成立した」物語、これこそ「脱構築的物語」と言えるのではないだろうか。「あるべきもの」がなく、「あらざるべきもの」がある、《存在》と《時間》の異常、さらに《構造》と《構図》の異常。ここに「不安」の原因があると思う。(まさに、ノルアドレナリン ready, go!?)

たとえば、『』に時折現れる、波打つ緑の草原。波打つのは、風のせいだと、視覚的には理解し、判断し得るのだが、この『』における「波打つ草原」は、ただ風によるものではないのでは、と想像力は訴えるのだ。そのイメージは、目には見えないものが接近している、その尋常ならざる「不安」。もちろん、風が目に見えないのは当然なのだが、見えないものが見える気がするからこその「不安」。さらに、「この風は、一体、どこからやってきたのだろうか」と、その起源にまで思いを馳せ感ずる、その謎に対する「不安」。だが、同時に、風に吹かれる感覚、そこになぜか、<快>の感覚があるのだ。ここに、「不安の中の安心感」が生ずる。(ドーパミン、セロトニン発射!?)

そして、この『』における「詩的言語」。20世紀初頭、「日常言語」から、一端、「言語」を切り離し、その美的機能、たとえば、ことばのリズム、イントネーション、プロソディーの機能分析研究を追求したのは、モスクワ言語学サークルだったが、ロシア人であるタルコフスキーも、その影響を強く受けているとするのは、いささか強引だろうか。

「<ことば=記号>となる以前」、「ことばが意味を持ち、何らかの象徴としての記号となる以前」、「その<表現ではない表現>の仮の様態」、「フロイトの用語を借りれば『欲動』、精神と肉体の境界にある恒常的な流れ」、そこにコトバが共起するのが、《詩》であると言える。だからこその、「内なる叫び」が《詩》なのだ。この『』が素晴らしいのは、セリフやナレーション(だけ)が《詩》なのではなくて、映像そのもの、音そのものが、《詩》であるということだ。「映像詩」とは、まさにこの『』にこそ相応しい《名前》である。

観客がこの『』を観て、その「意味性」や「象徴性」を追求するのは、この《詩》、「詩的言語」、その<自由な韻律の流れ>を阻害し、抑圧し、排除してしまう。しかし、その追求したいという欲求こそが、人間のコトバに対する性(サガ)なのであるが、この『』のおそるべきところは、とめどなくあふれる詩的言語により、そうした観客の欲求・性を、ことごとく破壊しようとする力があり、観客は、その葛藤・せめぎあい・ジレンマの淵に立たされるのである。そうなると、無抵抗にならざるおえない。そこに「眠気」があるのだと、僕は見る。

そういう意味では、逆説的に、僕がロシア人でなくて良かったと思った。「ハラショ」くらいしか知らない僕にとって、コトバが意味を持つ前の、否「持たされる」前の、そのコトバのダイナミズム、「詩的言語感」を原体験で感ずることができるからだ。(だから、それを悟った途中からは、あえて字幕は読まなかった。)

コトバに対して、無抵抗でありつつ、無抵抗ではない。これぞ、赤ん坊が、コトバに対峙したときの反応ではなかろうか。詩と呼ぶべき《詩》を読んだ時に抱く(もちろん、声に出して読まねばならない)、ノスタルジー、その美しい音に対する《意味》を超越した快楽、そして、のっぴきならない不安、そのすべてが、この『』にはある。まさに、アンドレイ・タルコフスキーによる、「詩的言語の革命」である。

羊水に浸された記憶、その黒い深海。白濁の記憶の波は、青い河を溯る。やがて、たどりつくは、詩的言語の翠の泉。そして、体温のような風が吹き、水面が揺れる。最期に訪れるのは、残酷な救い。

追記1:「詩的言語の革命」というのは、言語学者であり精神分析医でもあるジュリア・クリステヴァの著作タイトル。全三冊で、ちょっとした紹介文にのせられて、第一部と第三部を購入したものの、何度も途中で挫折している本。なので、クリステヴァが提唱する本来の意味とは、いささか異なるので、あまりツッコまないでくださいませ。語感が気に入って借用してみただけなので。

追記2:上の文章を要約すると、「ゴチャゴチャ言わずに、身を委ねよう」なのでありマス。

〔★4.5/これだけ書いておきながら、何故★5ではないのか。それは、僕の<好/悪>の判断の問題です。〕

[日本イタリア京都会館/3.18.02‖video/3.20.02]■[review:3.25.02up]

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (7 人)ハム[*] ぽんしゅう[*] 甘崎庵[*] けにろん[*] ina くたー[*] 若尾好き

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。