[コメント] 鏡(1975/露)
眠くはならなかった。それどころか冒頭の失語症?の治癒シーンから強烈に引き込まれ、ラストまであっという間だった。
もう5〜6回観た。只でさえ物語を把握する能力に欠けている私にとって、この映画は恐らく一生理解できないのかもしれない。(ちなみに映画の理解度と点数は殆ど比例しません)。で、『鏡』に対するコメントはたぶん半年以上保留になっていた。いくら待っても理解は出来ない、巧い解釈は思いつかないで、もう諦めた。
そんな中、少し閃いたことがある。『鏡』は俳句に似ていると思ったのだ。
例えば「静けさや 蛙飛び込む 水の音」という句は芭蕉だか一茶だか蕪村だかが(本当に忘れてしまった!)作ったものだ。もともとは恐らく、というか明らかに単純な光景だっただろう。池に蛙が飛び込んだだけのことである。(俳句は非常に英語に訳しづらいものだ。これがいかに日本語的な表現であるかをいつだったか授業で聞いたことがある)。
ところが単純な光景を俳句という言葉に閉じ込めることで、素材は一変する。鑑賞者はどんな静けさなのだろう、とか、どんな音がしたのだろうみたいな多様な想像・解釈をするようになる(たぶん)。
『鏡』でも同じような気がする。草原が風に靡くシーン。家が炎に包まれるシーン。じゃがいもに牛乳が滴り落ちるシーン。それらは皆上記の俳句のように元々は何でもないものだったはずだ。ところが『鏡』の中では実に意味深長な描写である。冗談でなく私は非常に深い「何か」を確かに感じ取った。
変ないい方かも知れないが、他の「感動的な」映画よりもこの『鏡』の草や風や炎やじゃがいもに私は感動したのだ。
俳句と『鏡』、両者に共通していえるのは日常的なものを見事に作品化しているところだ。そしてポイントは創造者の視点にあると思う。監督は恐らくありふれた素材を《非日常的》な視点で扱い、自己を通し加工して作品にしている。画面に写っているじゃがいもはもはや単なるじゃがいもではなく、大量の解釈の可能性や情感やら何やらがこもった「じゃがいも」なのだ。
もちろん全ての映画にそういった加工は成されているわけではあるが、『鏡』ほど見事な変容が起こっている作品はないのではないだろうか。
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