[コメント] ノスタルジア(1983/伊)
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「狂人」ふたりの交流の物語だが、ラストに「母の思い出に捧げる」と記される。これまで、この母とは回想場面に登場する女性のことだと思っていたが、今回観直して、(詩人のオレグ・ヤンコフスキーを「狂人」エルランド・ヨセフソンに取られてしまう)通訳のドミツィアナ・ジョルダーノこそ若かりし日の母の幻影ではないかと気づいた。タルコフスキーの父で詩人のアルセニー・タルコフスキー(作中ではジョルダーノが詩集を読み、ヤンコフスキーに取り上げられる)に捨てられた母に、ジョルダーノは境遇が似ている。「狂人」に挟まれた普通の女の嘆き、憂さ晴らしに廊下で陸上スタートをして転んでひとり笑う寂しさは、『鏡』の続編のようだ(ジョルダーノは『鏡』の母役マルガリータ・テレホワと面影も似ている)。
後半殆ど登場しない美人ヒロインとは、ハリウッドに限らず映画では普通あり得ない進行だろう。彼女はじめ、温泉客や「人生に満足」な少女は普通人としてやんわりと排斥される。ヨセフソンをジョルダーノは「イタリアには狂信的な信者が多いの。彼らは孤独よ」と評するが、ヤンコフスキーもその列に加わることになる。本作は女を捨てて物狂いに至る話だ。原題はロシア語で「ノスタルギア」、強烈で病的なノスタルジアという意味らしく、ドストエフスキーを生んだ国の言葉は凄いものだと思う。
1+1=1、ベートーベンの第九と、ヨセフソンの狂信は判りやすい。判り難いのは、これとヤンコフスキーの「ノスタルギア」がどこで重なるのかだ。多分重要なのは、ヨセフソンの家で発見される、窓の外の山脈と一体となったかのようなジオラマだろう。このジオラマは、モロクロで描かれた湖を望む故郷の風景にとてもよく似ている。ヤンコフスキーは、このジオラマは自分の故郷だと信じたのだと思う。そんなことはもちろんあり得ない。あり得ない偶然はそのまま狂気だ。発狂を映画で描くのは難しい。発狂をこれほど簡潔に描いた作品は稀だろう。
ヨセフソンの演説、ヤンコフスキーの温泉の件はどちらも力強い。どちらも失敗の要素が含まれているのがとてもリアルだ。焼身自殺にヨセフソンは苦しみ、音楽は途中で途切れ、温泉も湯は抜かれていて水のうえを渡ったと云えるのかどうか心許ない。失敗しない奇跡はないと云っているようで、私映画としての願望をもうひとりのタルコフスキーが笑いながら眺めている図が浮かぶ(蛇足を少し。映画の『風の谷のナウシカ』は本作の翌年の公開だが、あのなかの未完成の巨神兵の描写はこことよく似ていると封切当時思ったものだ。影響があったのだろうか)。特に温泉の件など、『ストーカー』もそうだったように、見ようによってはまるで子供の悪戯だ。ハリウッド大作の対極にある描写で、奇跡とはあのように子供の泥遊びのような場所でなされるものだという認識がある。これは今でも新しい。
ヤンコフスキーは望郷の念抑えられず帰郷して自殺した音楽家パーヴェル・サスノフスキーの伝記執筆のためにイタリアにいるのであり、ソ連への帰郷を前提に旅をしている。だから間欠泉のように浮かび上がるモノクロ映像はサスノフスキーの記憶であるはずで、ヤンコフスキーはこの音楽家の亡霊に捉えられていると解するのが当然なのだが、多分誰もそうは取らないだろう。あの坂や森もまた『鏡』の風景に似ていることから、監督の分身であるヤンコフスキー自身の記憶だと解するのが自然だ。すると本作はやはり、亡命を前提に撮られた(タルコフスキーは本作完成直後に亡命を宣言する)監督の告白だったのだ。終盤、ヤンコフスキーがもう一度温泉場に戻ると告げると、ツアーリストはやっぱりねと応える、ここは監督が仕掛けた謎解きに違いない。我々が感銘を覚えるのは、本作はこれほどの大作なのにまるで8ミリのような私映画だと知るからであり、そこでのっぴきならない決断が語られていると知るからだ。
冒頭の余りにも美しい故郷の風景の真ん中には電信柱がそびえている。ヤンコフスキーの放浪の最中、電気鋸のような騒音が鳴り続ける(ヤンコフスキーの狂気を示している)。これら近代化をモチーフにした違和の挿入の方法は、タルコフスキーもロシア・アヴァンギャルドの末裔だと示している。ソ連に別れを告げる作品に含まれたこの要素は、あの運動の終焉を記録したものと呼べると思う。「迷った地点まで道を戻ろう」とヨセフソンは演説するのだから。
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