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[コメント] セコーカス・セブン(1980/米)

彼ら「セコーカス・セヴン」のことを考えるだけで、元気がわいてくる時期があった。
tredair

いかにも低予算(ネット上で予算2万ドルだの6万ドルだのといった記述を見たことがあるが、パンフレットには12万ドルとある)な安っぽいロケのオンパレード。見るからに手作りの拙い編集と素人そのものの役者たち。

それでも、だからこそ際だつ「ステキ」がこの映画にはみなぎっている。ドキュメンタリーかと思わせるようなセイルズによる「仲間」への慈しみがあふれている。

この映画を見た当時、私は大学生だった。にもかかわらず、いつも高校の頃からの友人の一人とつるんでいた。

高校は私が初めて「仲間」というものを見いだした場所で、授業には出なくても友人たちの顔を見たいだけで放課後登校してしまうぐらい大好きだった。なんとなく各クラスから浮いていた者同士が自然に仲良くなり、だらだらと音楽や小説、映画の話でもりあがっていた。「トランジスタ・ラジオだな。」と授業をさぼって煙草をふかしたり、パティ・スミスやバウハウスの写真コピーを学校中にはって回ったり、「一度はやっておこう!」と学校を休んで冬の海に行ってみたり。男も女も平等に、とても仲がよかった。それぞれの個人的な思惑や複雑な恋愛感情もあったかもしれないけれど、「仲間」と呼ぶにふさわしい関係だった。

けれど高校を卒業してしまうと、進路(留学した者や浪人となった者もいたし、フリーターとなった者もいた)の関係もあり、実際には離ればなれになっていった。何人かとの個人的な付き合いはあったけれど、全員と毎日のように顔を会わせていた頃にはもう戻れなくなっていた。

そんな頃にこの映画を見たことで、私たちは感極まって(悲しくもないシーンで)ポロポロ泣いてしまった。なんだかむしょうに切なくて、そして、ほっこりと嬉しかった。

もう私たちは毎日のように一緒にはいられない。いつまでもつるんで馬鹿なことばかりしてはいられない。でも、何十年経っても仲間は仲間。また集まれる。ああやって、あたりまえのように球技を楽しんだり現在や過去の話をして笑ったり泣いたり怒ったりできる。私たちはこの映画から、セイルズのあたたかな視点を通してはっきりとそれを教えられた。

この映画のスタッフや役者は実際にセイルズの友人だそうだが、だからこそのリアリティゆえに、それをすんなり受け入れて消化することができた。その(最終的には)あたたかな「再会」を、ごく自然に信じることができた。

その後10年以上経ち、海外移住した友人が帰国した際、久しぶりに高校のある駅に集まった。もう子連れの者もいたし、沖縄など遠くに引っ越していて来られない者もいた。それでも、なつかしい喫茶店を訪ねたり(こちらが何も言わなくとも店主が気付いてくれびっくりした)、卒業式の日に別れを惜しんだ公園へ行きのんびり遊んだりと、とても楽しい一日となった。 その日以降、彼らと一同に介したことはない。でも、また何か機会があればきっと集まれるだろうと思っている。

彼らと会わなくなってからもたくさんの人と出会い「仲間」としての関係を気付いたことも幾度かあった。実際、今もその友人たちに多く助けられているというのが本当のところだ。それでも、思い出すことさえ以前と比べて少なくなった初めての「彼ら」との関係は(記憶の中で)どうしようもなく鮮烈に輝いている。 たぶんそれは、私にとって「生まれて初めての複数との密な関係」だったからだろう。そして、この出会いがなかったならば、私はいまだに人となじめない自分の殻に閉じこもりがちな人だったからだろう。

「セコーカス・セヴン」の仲間たちだって、それぞれ離れているあいだに違う世界の人々とつながって、大切な関係を構築していたに違いないのだ。今もその新しい関係の方に重きを置いているに違いないのだ。それでもセコーカスセヴンとの関係を消し去ったり忘れ去ったりはしなかったのは、そんなことをする必要はなかったから。それぐらい幸福な大切な関係だったから。

…私たちがそうであったように「セコーカスセヴン」はきっと世界中のいたるところに存在するのだと思う。そして、たまに懐かしく思いだしあってニヤニヤ笑ったり互いの成長を見守ったりしているのだと想像する。

よき時代の楽しかった思い出を胸に、それぞれの現在と未来、いつの日かの再会を信じて。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)tacsas Yasu

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