[コメント] カリスマ(1999/日)
カリスマを巡る社会秩序の話なんだけど、 無理に「木」の話にしないでそのまま「人間」でやればいいのに。 語る記号や展開の装置を「木」にしたことで、「木」の意味付けばかりに気をとられて、 結果、いびつな「森」として作品を作り上げてる。 導入部であるはずの「木」の話になるまでの長い前半も非常に退屈だ。 テーマ自体も目新しいモノではない。 植木の微妙な創作を楽しむのが盆栽だけど、 俄か盆栽趣味の老人がちゃちな盆栽を自慢してるような映画でもある。
映画にはジグゾーパズル型と積み木型がある。 ジグゾーパズル型は、アート系に多く、細かい断片を与えられ、自分の頭の中でそれを組み合わせながら、 最後にパズルが完成したところで、そのパズルが形作った全体の絵を見ることとと組み立てた達成感とで、 時に人生を左右するような感動をもたらす。 積み木型はハリウッド的と考えて頂くとわかりやすい。 一つずつ積み重ねていって、途中、崩れそうになってドキドキしながらも、積み木を積み上げると、 見終える頃には、積み木でできた建造物が出来上がってて、その造詣や完成度が感動を誘ったりする。 見る方としては、前者の方が苦手な人が多いだろう。パズル型は、どういう展開になるのか、最後までわからないことも多く、時にはオチも無かったり、 監督自身もパズルをより複雑にすることに凝ったりするので、 それを解く能力が無ければ見る側は途中で諦めてしまう。 だから「客を選ぶ映画」と言われたりもする。
黒沢監督の「カリスマ」は、前者の「パズル型映画」である。しかも、ピースが足らないのでパズルは完成しない。 つまり、「不良品パズル映画」である。組み立てる作業を終えた時に、そこにはまだ、埋まらない空間がある。 私なんかは、そういう不具合を見つけてしまうと「いい加減だな」と思うが、この手のは「アート」だったりするので、 その「埋まらない空間」すら「意味」ととったり、もしくは、自分なりの「断片」を加えて補填して評価したりもする。 だから、「パズル型映画」の評価は一定ではない。パズルが好きな人、パズルが解けない人、解けたことに感動する人、解けてできた絵にも感動する人、 パズルは解けたけどできた絵がわからない人、解けて絵もわかるけど絵が面白くないと思う人、etc。 解釈や評価の余地を残すのも「パズル型」の特徴である。 で、そんな「パズル型」の選択を「逃げ」としてるような印象を、この「カリスマ」から強く受ける(「狂気」に逃げるのも常套手段?)。 「なぜ?」はたくさんあるし、それを説明する断片が足らない。しかも、出来た穴だらけの絵は稚拙で面白くない。 さらに、「パズル型」の割りには、一片一片の「1ピースの絵」が安作りなのである。 でも「パズル型」の場合は、安さに意味付けをする「ポップアート」もあるから、それすらもつい「許してしまいがち」である。 そこに付け入ってほくそえむ黒沢監督の顔が思い浮かんでしまうのは、私の被害妄想だろうか?(笑)
「ジグゾーパズル型」と「積み木型」とは、映画として本来区別されるべきではないし、 良い映画は両方の特徴を上手くミックスさせた「複合型」だとも思うが、 互いを対比させてただ「差別化」することのみに価値を置く作品を、私はもう楽しめない。 もっとも、「複合型」を目指してた前作の「CURE」も私は楽しめなかったけど。
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