[コメント] 救命士(1999/米)
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夜の激務を終えたフランク(ニコラス・ケイジ) が、ナレーションの中で「他人の命を救うと、自分の命まで甦らせた心地になる」と、仕事の成功から得る至福、神の如き全能感を語った直後、「救えなかった命に関しては、何か他のものに原因を押しつける」。だが彼が、そうやって抑圧したつもりでいた罪悪感から逃れられないでいることは、冒頭からの鬱々とした、死人のようなその表情から既に窺い知れる。この、「神」と蘇生という観念は、クスリのせいで倒れた若者を前にマーカス(ヴィング・レイムス)が演じてみせる神の奇跡としての復活劇や、双子を出産する女の傍らで「彼女は処女だ」「奇跡だ」と男が言う台詞、夜の街で説教を繰り返すシスターなど、様々な宗教的意匠にも反映されている。それらのパロディ的な様相は、神の救済なるものの不在をより印象づける。
フランク自身は、派手に横転した救急車や、薬による幻覚を伴う眠り、ベランダの柵に刺さったヤクの売人と心中しかけた転落の危機などから、その都度「復活」してみせるのだが、彼の生は、他者の死に直面させられる状況に於いてのみ継続されるかに思え、死という虚無が常に透けて見える生でしかない。
ローズ(シンシア・ローマン)の死という、取り返しのつかない過去に拘泥し続けるフランクの、半ばゾンビ化した眼差しは、その視線の先の街の光景の中に死を、亡霊を見出す。彼の視線によって街そのものがネクロポリスと化す。そうして、罪悪感に耐えきれなくなったフランクの内面では、命の救済ではなく、逆に「死」にこそ救いを求めるという、精神の倒錯が現れたように見える。冒頭シークェンスでは絶望的な状況であったメアリー(パトリシア・アークエット)の父が、命を永らえそうになった頃、フランクはむしろ、この男が自分に死を求めているように感じていく。生を求めながらも、死に遭遇し続けたフランクが、自らの魂を救うために行なった倒錯の結果、救われかけた命が断ち切られる。
神ならぬ身であるフランクが、自らの力が及ばず救えなかった命に過剰に責任を感じたが故の、死への傾斜。責任感とは、その誠実さという外見の下に、眼前の状況を自らの手でコントロースせずにはいられないという倒錯性が、常に既に潜んでいるのかもしれない。
監督と脚本家が同じである『タクシードライバー』の顛末と本作を比べてみれば、「死・殺人」と「救済」との関係性に於いて、ちょうど表裏を成しているようにも見える。
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