[コメント] チャンス(1979/米)
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序盤のシークェンスでは、その淡々としたリズムに心地よさを覚えつつも、明らかにエリック・サティのパクリとしか思えぬピアノ曲が気になって仕方なかったのだが、チャンスが屋敷を出るシーンで“ツァラトゥストラはかく語りき”序曲のポップなアレンジが挿入されたので、サティもアレンジとして使用したのだろう、と一応納得。
特定の番組に執着するでもなく、テレビのチャンネルを変え続けるチャンス。街中で怪我をし、シャーリー・マクレーンの車に乗せられ、車内のテレビを観ているシーンでは、マクレーンの「世の中の情報が多すぎて処理しきれないわ」という台詞が、その対照としての、テレビからの情報を特に「処理」することもなく流しっぱなしにしているチャンスの淡々とした態度を浮き彫りにする。チャンスがチャンネルを変える早さはむしろ、世間の忙しないスピードに対する彼の無反応、緩慢さの表れなのだ。ツァラトゥストラ繋がりで『2001年宇宙の旅』との類似性を一つこじつけてみるとすれば、それもやはり、作品に流れる緩慢な時間ではないだろうか。
この悠長さは、チャンスの態度と世間とのズレそのものでもある。これが映画のそこここで笑いのツボを生みだしていて、クスクス笑いが基本であろうこの映画で、僕は何度か爆笑させられた。例えば、チャンスが、自分のテレビ出演に全米が注目する中、自身はいつも通り、番組の途中で平然とチャンネルを変えてしまい、テレビの画面で、意味不明な雄叫びをあげて踊る男の姿が延々と流れ続けるシーン。この踊りのバカバカしさは、世間そのものをバカバカしいものとして静かに爆破している。
或いは、シャーリー・マクレーンが「我慢できなくて」チャンスの寝室を訪ねるシーン。彼女はチャンスの意思を勝手に解釈して、彼のベッドの傍らで自慰に耽ってみせる。それに先立つチャンスの態度は、彼女の恋愛感情のシリアスさに対して全くまともに向き合わず、自分の興味のままにテレビに見入るという、非情とも思えるもの。だが、テレビのエクササイズに見入るチャンスがそのままベッドの上で逆立ちした時、自分の欲求の他には目もくれず熱心に一人相撲している点では二人とも変わらない、という奇妙な一致点が顕わになり、これがまた可笑しい。
チャンスの、文字の読み書きが出来ないという設定、新聞も読まずテレビだけを好む性格は、文字の読み書きという行為が多分に能動的なものだからだろう。周囲の思惑の表面に浮かぶ浮草のような、時の流れに身を任せるままのチャンス。そんな彼の言動を周囲は勝手に深読みし、ただの偶然 chance を好機 chance として利用しようとする。ラスト・カットでは、チャンスは水面に浮かびながら、湖の深さを測っている。彼の不思議な立場を明瞭に示す画だ。
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