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[コメント] ベン・ハー(1959/米)

これに『隠し砦の三悪人』と『2001年宇宙の旅』を併せると『スター・ウォーズ』になり、『マッドマックス』とブルース・リー映画を併せると『北斗の拳』。ベン・ハーがダークサイドに落ちたり世紀末覇者を目指してもおかしくない、結構ハードな展開だ。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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戦車レースに先立って、ユダ(・ベン・ハー)がアラブの富豪に馬達を任せられ、ユダヤの誇りを見せてやれ、といった感じで励まされる場面を観ると、何だか穏やかな時代であったかのように錯覚してしまいそうになる。当然、ローマ帝国はアメリカに見えてしまう訳で。

イエス・キリストの顔も声も聞かせずに観客の想像力に委ねる手法は構わないのだが、そうなるとイエスに対面した人物達の表情やリアクションが重要になるのは言うまでもない事。で、ユダの恋人エスターは、登場人物中で真っ先にイエスの教えに染まる人物なのだが、その演技があまりに大根。いや、時代のせいか、この映画の役者の演技は全体的に芝居がかっていてリアリズムのリの字も無いのだけど、型にはまった演技にだって、それなりの説得力の有る無しがあるもの。新興宗教にのめり込んだ単純な女、といった調子の、固まった表情しか見せないエスターは、イエスが十字架を背負って歩く姿を見ても、何か型通りの同情を見せているだけにしか見えない。

対して、ユダとイエスの関係は、それなりに巧く描かれていたように思う。ガレー船に送られる道行きの最中、あまりの渇きに倒れたユダに、イエスは、ローマの軍人が禁じたにも関わらず、水を与える。後にこの一杯の水についてユダは、母と妹が牢の中で死病に罹って死の谷に身を隠す事になったのを知り、「あの水を飲まなければ良かった」と嘆くのだが、この台詞に表れている事はつまり、ユダがガレー船や戦車レースといった過酷な試練を越えて生き延びてきた最初のきっかけが、あの一杯の救いの水だった、という事だ。彼の冒険が描かれる中、彼が苦難に立とうと幸運に恵まれようと、「神の御意志」という台詞が事あるごとに現れたのも、映画の冒頭で予告されていた「キリストの物語」としてのユダの冒険、という主題を観客に思い起こさせていた。

そして、十字架を背負うイエスに、今度は逆にユダが、ローマ人の禁止を破って一杯の水を与える、という、この何ともさり気ない一場面の印象深さ。思えば、ユダが幸運に恵まれたのも、ガレー船を指揮していた将軍を救った事によるのであるし、かつての友にして宿敵であるメッサーラを倒した時には、終わった筈の復讐や恨みがまだ続く事(母と妹はまだ生きており、酷い病に罹っている)を告げられてしまうのだ。こうして、ガレー船と戦車レースという、この物語の二つの山場は、単にスペクタクルとして以上の意味合いが出てくる事になる。「さ迷えるユダヤ人」という民間伝承では、イエスに一杯の水を求められて拒絶した者が、永遠に世界を彷徨う者となる。これを逆転して一人の英雄にまで造形してしまう力業には感心させられるし、ユダという名前も含めて、ユダヤ人の悪印象を緩和する為に書かれたのかと思わせる所がある。

暗雲の下、稲妻が鳴り響く中、地面の血溜まりに、十字架に磔にされたイエスの姿がおぼろげに映るショットなど、赤いペンキのような血の色も相俟って、不気味である。だが、このゴルゴタの丘に血の河が流れ、ユダの母と妹の病が癒える場面は、これに先立つ場面でユダとエスター(確か、ユダヤ教で「マドンナ=聖母」を意味する名だった筈)が交わした会話、ユダ「この地を洗い清めなければ」エスター「血によって?」ユダ「そう、血によってだ!」という遣り取りがあって初めて、象徴的な意味合いが、つまりは説得力が出てくる所。ユダは敵の血によって洗い清めるつもりでいたのだが、イエスは自らの血によってそれを行なった訳だ。

とは言え、神的な超越的意志と、人間性との葛藤、という点では、『シスの復讐』の方が遥かに深みも説得力もある。これは時代性もある所で、やむを得ない事――などとフォローするのもちと甘いかもしれないが。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)荒馬大介[*]

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