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[コメント] フェリーニのローマ(1972/伊)

幻想の都ローマの、光と影、虚と実、過去と現在。カメラワークとカット割り、被写体の魅力、陽気な騒々しさだけで構成されたエネルギッシュな映像。ローマの歴史とフェリーニの記憶、二つの過去。陽気さの影に漂う死とニヒリズムこそ、イメージの真の映写幕。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







不思議な形をした樹。道路に血を流して倒れる牛と、燃えるトラック。クラクションの音。赤い照明に照らされる車窓の中の人の表情。夜の街に響く爆竹と、青い光に照らし出される、犬の黒く大きな影。そして、子供の話すイタリア語は、やっぱり可愛らしい。

フェリーニの幼少期の記憶として描かれている序盤では、彼が未だ見ぬローマは、学校の授業の中で教えられるイメージでしかない。遺跡の写真や、教師の語る、シーザーがルビコン河を渡る話、神父による解説など、由緒正しき歴史と伝統の都として描かれている。だが、スライド写真による授業中に突如、間違って映し出される女の尻。はしゃぐ子どもたち。神父は大慌てで「悪魔です、見てはいけません!」と取り繕うが、青年フェリーニが実際に触れたローマはまさに、この女の尻に象徴されるような、猥雑な街なのだ。

ローマの娼館は、場末のそれと高級娼館の両方が登場するが、建物の装飾が違うことと、謎の大人物(?)が女の貸切をやること以外は、女たちの売込みなどは同じだというのが何だか可笑しい。だがこうした猥雑さだけでなく、確かにローマは歴史の都でもある。監督フェリーニが撮る現代のシーンでは、古代のコロシアムの脇の道路に密集する自動車の群れや、彫刻に囲まれながら屯する若者たちなど、過去と現在が混在するさまが映されている。

地下の工事を取材するシーンでは、責任者が「他の街のように便利にしたいだけなのに、この街ではすぐに遺跡にぶつかる」と、テクノロジーで地下を掘りぬく人間が、却って考古学者なみになってしまう皮肉な状況を語る。地下ですら過去と現代が混在しているわけだが、取材中に‘偶然に’発見されたフレスコ画や遺物(この辺の山師的な胡散臭さがまた楽しい)が外気に触れて脆くも崩れ去るように、過去、時間というものの儚さもまた描かれている。

それを端的に象徴しているのが、終盤の教会ファッションショーだ。貴婦人の「俗世間の真似をするなんて」という台詞に表れているように、ローマ法王のお膝元としての権威の街にも押し寄せる現代の風俗。モデル役の聖職者たちは死人のような顔をしている。だがフェリーニは、秩序ばかりを重んじる抹香臭い連中は最初から死人同然だ、というイメージでこの場面を演出したのではないか。ステージには遂に骸骨たちが登場する。最後に現れた法王と思しき人物は、紅白歌合戦の小林幸子なみの電飾をまとって登場し、人々は彼に向かって「カムバック!」と訴える。もはや戻らぬ栄光のローマ。既に青年フェリーニのシーンでも、「法王がいらっしゃるローマには爆撃はない」と言っていたすぐそばから、爆撃だと叫ぶ女性が現れていた。

電飾法王に続くショットでは、現代のローマを飾る、祭の電飾が映し出される。ローマの輝きは、違う形で現代にも生きている、ともとれる、両義的な場面転換。祭の名称は、「自分たちを称える祭」という意味だ、というフェリーニのナレーション。街の女たちが「寝泊りできる空洞があるみたい」だと噂したり、「臭くてたまらない」「マンホールの隣りなんて」とこぼし、親爺が「歴史の香りだ」と陽気に言う。地下、ということで、やはりあのフレスコ画のシーンが脳裏に閃く。抑圧され、滓としてうち棄てられる歴史?誰もいなくなった夜のローマを静かに散歩しようとしたフェリーニの前に現れる、バイクの群れ。静寂は破られる。だが、このバイクの轟音に包まれながら、バイク乗りの視点から次々に映し出されるローマの街は、まるで化石のようだったその印象を一変させる。石造りの建物の壁面に映し出される、彫刻の大きな影。光と闇の交錯。そしてそのままフェリーニのカメラは、バイク隊と共に、ローマの外の夜へと走って消える――。

そう、フェリーニは、過去が新しい時代によって後方へと追いやられるさまを描きながらも、同時に、只秩序や伝統にとらわれて化石化したローマよりは、猥雑なノイズによって活性化したローマにこそ生命力が満ちているのだという、その両義性を、圧倒的な力強い映像によって提示しているのだ。過去に青年であった自分の記憶と、現代の青年たちの姿が、すれ違いながらも重なっていく。若者たちが警官に排除される脇で優雅にインタビューに答える大臣は、「彼らはセックスのことしか考えていない。害にはならないが」とのたまうが、青年フェリーニもまたローマで女を買っていた。

青年時代のナレーションで、「ファシストは二つの偉業を成し遂げた。衛生の改善と、列車の定刻通りの運行」。この二つが意味する所は、秩序。劇場のショーで野次を飛ばす男は秩序を乱し皆から咎められるが、途中で入る戦況報告や空襲警報が、一気に、有無を言わさぬ静寂をもたらす。

猥雑なエネルギーに充ちたこの映画には、どこか終末感が漂っている。思えば冒頭のシーンでは、「ローマと聞けば一番に思い出す光景」として、故郷の街外れにある不思議な岩の映像が現れていた。不気味な枯れ木くらいしかない荒地に、ただポツンと置かれたその岩には「ROMA」と刻まれている。その前を通る、自転車をひく人々は死神のようで、大鎌を持った人物もいる。その、殆どモノトーンに見える暗い映像は、タイトル画面での鮮烈な赤と対照的だ。

最後の祭の場面でインタビューを受けていた作家は、「ローマに住むのは、ここが中心だからだ。政府や教会、映画の。幻想(イリュージョン)の創造者たちにとっての都だ」、「ローマは何度も死に甦ってきた。世界が破滅に向かう今、滅亡を見守る場所として最良だ」と語る。死=虚無と表裏一体の幻想。政府や教会の権威や秩序、そして映画の美も全て幻想。ローマの歴史と、自らの記憶という二つの過去をオーバーラップさせたこの映画を終える前に、「ローマの生きた象徴」アンナ・マニャーニに質問を投げかけるが、こう言って拒絶される――「嫌よ、貴方を信じてないの」。フェリーニは彼女の台詞に、彼に勝手に演出されたローマが自分に投げかけるであろう言葉を代弁させたのではないか。

祭の広場は、ローマ人が外の人間と交わる場所。「定住する人もいる」。だがフェリーニは外の暗闇へと出て行くことで映画の幕を下ろす。「全ての道はローマに通ず」。だが、ローマそのものは一つの空中楼閣でもある。世界は全て幻想なのだ。

(評価:★5)

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