[コメント] 木靴の樹(1978/伊=仏)
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他の家より早くトマトを収穫するために、夜中にこっそり鶏の糞を撒きにいくシーンや、民衆の窮状を訴える政治演説が行なわれる中、地面の金貨を密かに拾うシーン、学校に通わせている子の木靴を作ってやるために夜、隠れて樹を切るシーン、といった形で、貧しい生活からほんの少しでも抜け出そうとする行動が、どれも、地主の支配下で微妙な均衡を保っているらしい村の生活の水面下に隠れて行なわれるということ(どうやら例の蓮實センセも同じような「主題論的」統一性を指摘されているようですが現時点(2011.07.01)では未読)。この線に沿って、トマトを売るシーンと、無断で樹を切ったせいで追放されるシーンとは並行して進行し、追放一家には宗教的救済も、政治的な救済の手も差し伸べられることはない。一家の馬車の、夜道に遠く小さな点として見える灯火を捉えたカットはそのまま、エンドロールの暗闇に様々な思いや問いを沈めていく。
収穫の三分の二を地主に持っていかれる農民の生活を実際の農民に演じさせる、ドキュメンタリー性。傑作と呼ばれるのは分かるが、苦手だ。この種の、「素朴な人々」の生活を「ドキュメンタリー」風に長々と綴っていくような作風は。フィクションならではの視角を開いてくれる箇所がもっとあってほしいのだが、あり得るものとしての「現実」を構成して追うドキュメンタリー性が目立つ、一貧村の生活誌の枠に概ね収まってしまう作風は退屈。濃厚な色彩と生活感を湛えたカットの連続で、さすがに眠気に誘われるようなことはないのだが。特別な何かがあるわけでもないこの素朴さこそが本作の美点なのだとは理解するし、そこに写された人間模様に全く心動かされないわけでもないが、芸術的なサプライズもなくただ「人々の生活」を眺めることには興味がない。こんな感想を漏らすお前は人非人ではないのかと言われそうだが、そうです僕は人非人なのです。
素人俳優を使う手法も、例えばロベール・ブレッソンの、抽象性と肉体性を併せ持った「モデル」を造形するアプローチのような先鋭さがあるわけではなくただ素朴さという美徳に沿っているだけであるし、ワンシーンに長い時間を割いてもテオ・アンゲロプロスのように、素朴な人間の営みを形而上的な俯瞰によって優しく包み込むといった、独自な視点の創出が為されているわけではなくただ「ドキュメンタリー」的に農民目線に立っているという印象が強い。人間が人間であることを、土が付いたままの作物のように素朴な形でゴロンと提示するといった態。
船旅のシーンで、岸の向こう側から昇る煙に「火事だ」「いやデモの鎮圧だろう」云々と村人たちが会話を交わす遣り取りには、人々を取り囲む条件としての時空間への視角が垣間見える。こうしたシーンの方が個人的には興味がある。歴史と共にいつか消滅するであろう「人間」は、僕には最重要事ではない。生活感溢れるシーンはほどほどにしてほしい。
学校に行く子を見送る父のカットに障害物を被せていたことと、ラストシークェンスで、追放される一家を見守るカットで窓の格子を被せている(つまり見守る側の一家は、追放一家のために神に祈ってはいるが、自分たちは家という囲いに護られているという立場的な隔たり)こととで、ほんの少しだけでも村の生活の単調さから抜け出すことへの切なる想いと、その代償との対比が図られているようにも見える。また、シスターが口にする「神の恵み」とやらが結局は養子を育てる代わりの金銭であって、子供を慈しみたいという想いそのものは木靴の一件のように断罪されてしまいさえすることを思えば、殆どアンチキリストな映画ともとれ、その辺の厳しさもまた評価したいところではある。
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