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[コメント] 隣の八重ちゃん(1934/日)

次に何が起きるのかという、観客へ気を持たせる技巧が上手く、たいそうな事件は何も起きない平凡な日常生活を、ハラハラと見守ることにる。
G31

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 娘が嫁に行く。自分の娘を嫁にやる。嫁いだ相手(夫)がよそに女を作るということは、妻にとってたいへん不名誉なことらしい。京子(岡田嘉子)は、反省もなく浮気を繰り返す金田(夫)に対し「よくよく考えて」、こんな男に自分の将来を託すことはできないと合理的に判断し、実家に戻ってくる。一方で、一たび嫁いだからには、多少のことには耐え、夫婦の道?をまっとうするのが人の常であるから、嫁に出した娘が勝手に戻ってくるということは、実家にとっても相当に不名誉なことのようだ。ところが服部家は、有無を言わさず婚家へ戻すというような、強権発動はしない。それは、女にだらしない金田にはやはり問題があると思っていて、可愛い娘の本当の幸せを考えると、娘のとった行動を頭から否定するのが絶対的に正しいとは確信が持てないでいるからだ。この様に、価値観の相克として描かれるので、実際にこうしたことが普通に起こっていたのかどうかはともかく(リアルさを重視する映画ファンからは、こういう点がよく批判される)、実感としてこの時代の人情を把握しかねる人間にとって、当時の人情がたいへんにわかりやすい。

 例えばこの時代の小津安二郎の映画に、夫に先立たれた妻が、女給をしながら生活費や子供たちの学費を稼いだ、というモチーフの映画がある(『母を恋はずや』)。事情を知らずにすくすくと?育った息子は、母の不潔さ!を知り、捻くれてしまう。そんなんで捻くれんなよ!というのが率直な感想である私にとって、彼(息子)の気持ちがまったく想像つかないとは言わぬが、「女給」なる表現が実は、売春婦かなにかを暗示してたりするのか?と疑問を感じてしまうのである。つまり、価値観の表明が一方的にすぎて、その強度がわからない。

 それ(小津の『母を恋はずや』)と比べると、島津保次郎(のこの作品)の方が、はるかに洗練されている。娘が家出をするということが、女給みたいな悪所に身を落とすことを意味しかねないこと、それが家族にとっていかに不名誉なことであるかということ、そのために娘はむしろ死を選ぶかもしれないということ、そしてそれを心配するのは、子を想う親の気持ちという、普遍的な感情から生じているのだということが、手に取るようにわかりやすく描かれているからだ。

 ラストで八重ちゃん(逢初夢子)自らに、女学校を卒業するまで隣家に厄介になることから、「もう隣の八重ちゃんじゃなくってよ」と言わせる。本来の「隣のお嬢ちゃんでなくなる」とは、一人の異性として認識されることを意味するはずだが、まだまだ無自覚な八重ちゃんは、より身内的になることをそう表現するのである。こうした肩透かしな終わらせ方からも、島津保次郎という映画監督が、オーソドックスにエピソードを積み重ねて物語を紡いでいるだけに見えながら、実は手管に長けていることがわかる。

80/100(09/04/25見)

(評価:★4)

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