[コメント] 顔(1999/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
トウの立った引きこもりおばさん正子(藤山直美)がひょんなきっかけから妹(牧瀬里穂)を殺してしまい、生家をイヤイヤ出奔し、波瀾に満ちた逃亡劇をつづけるうちに、いつしか生きることの充実感を勝ちえていくっていうお話。旅の過程で主人公が成長してゆくという物語形式、それは一般的にロードムービーと呼ばれているものである。ここで注目したいのは彼女の「足取り」だ。
予期せぬ妹殺しの惨事の後、否応なく生家を出奔せざるをえなくなった状況下、妹の絞首死体をぶっきらぼうにまたぎ越すときの、耳障りな足音を虚ろに鳴り響かせる鈍重な足取り。
震災後の荒れた街で酔漢(中村勘九郎)に強姦された後、あてもなく街を彷徨しているときの、フラフラと片足を引きずった足取り。
住み込み先としてラブホテルに仮りの居を定める頃になると、ホテル屋上で脳内音楽に合わせて踏むステップには、すでに軽さが感じられるようになり……。自ら未知なる世界へと歩を進めていこうとする自発的な意志の芽生えが、「足取り」の変化であらわされる。すすむのだ。前へすすむのだ。彼女がホテル経営者・花田(岸部一徳)に、今まで乗れなかった自転車の運転を教わろうとしたのはそのためだ。
より重要なモチーフ。物語の冒頭部で彼女が踏んでいるミシンという装置と、後半部で彼女が運転する自転車という装置の対比。「ミシンを踏む」というアクションは、一定の地点から動かずになされる「足踏み運動」である。この足踏み運動が、物語が未だ足踏みを続け重苦しい停滞のなかにあることの映画的な表現だとするなら、自転車は、「ペダルを踏む」というやはり同じ足踏み運動によって前進を行う=物語をドライブさせる映画的装置だ。
淀んだ停滞から生彩に満ちた運動へ。鈍重な足取りから軽やかなステップへ。その変容の過程が、正子が鬱屈した自閉の殻を破り「おんな」として「人間」として目覚めてゆく過程と見事に重ね合わせられる。自転車が風を切って、町をスクリーンを駆け抜けてゆく、あの無類の気持ちよさ! 「走る」ことの快楽が、彼女の成長過程と正比例しているさま、ロードムービーの本質的な快楽がそこにある。
正子がしばしば夢想する「生まれ変わり」の夢は、しかし結局はまた同じ場所へ戻ってきてしまう円環運動(永遠回帰=反復)を保証するものでしかない。狐の面をかぶった子供たちが謡曲に合わせて踊る狐祭りの円陣のように、グルグルと回り続ける観覧車のように。それは嘔吐をともなう(→「生まれかわるって何?」「この観覧車みたいなものだ。ぐるぐる、ぐるぐる」という父(佐藤浩市)と子のやりとり)。だから彼女は、生まれ変わることを夢想しながらも、何かに生まれ変わることもかなわない「この」世界を、現に「こう」あるほかない自分を、そのままに引き受けていこうとする。その「引き受ける」という態度が、そのまま歩き続ける、走り続ける、泳ぎ続ける、という具体的な運動として表象される。おお、映画だぜ!
円環の罠にからめとられつつも、そこで立ち止まらず、絶えずそこから逃げていこうとする不断の運動=これこそ生きることである、ということだろうか。はるか彼方の水平線へ向けて泳ぎすすむ、未だ終わらぬ予感を秘めたラストシーンは、だからメタファーではなく現実そのものとして見る者にこう語る、「歩み(運動)を止めたときに人生(物語)は終わるのだ」と。
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