[コメント] 話の話(1979/露)
映画を見終った人むけのレビューです。
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何故か高校生の頃、ロシア(当時ソ連)アニメとかカナダアニメ(ノーマン・マクラーレンが有名)とか実験アニメとかをいろいろ観たことがある。もはやそれが何なのかどんな作品だったのかほとんど覚えていないのだが、未だ記憶の片隅に断片的な映像が残っていたりもして、(私の中のアニメブームはとっくの昔に過ぎているのだが)それはそれで良い体験だったのだと思う。
日本はアニメ大国と言われるが主流はセルアニメである(世界的にもそうだけど)。 アニメはアキバ限定の世界ではなく、実はもっともっともっと広くて、こうした切り絵アニメや人形アニメ(『チェブラーシカ』が有名)、クレイ(粘土)アニメ(『ウォレスとグルミット』が有名)、フィルムに直接傷をつけるシネカリ(ノーマン・マクラーレン!)から果ては砂に書いた絵が動くものなど、その手法は様々だ(ま、基本はコマ撮りなんだけど)。私の高校時代の先輩は、サトちゃん(薬局の象の人形)やらケロヨンやらを総出演させたアニメを作っていた。ま、薬屋の息子だったんだけどね。 それはさておき、そんなこんなで私は「真のアニメ大国はソ連とカナダだ」と20年前に教えられた。逆にそのせいで、特に新鮮な感動はないというのが正直な所なんだけど。
こうしたセル以外のアニメは、今でもNHK教育の子ども向け番組で1〜5分程度の作品が放映され、時には「みんなのうた」なんかでも使われたりしているのだが、ここで共通しているのは、いずれも商業作品ではないという点だ。 商業的でない=“芸術”では必ずしもないのだが、仮にそう定義したとして、商売=セル、芸術=セル以外、という住み分けがほぼなされている。理由は簡単だ。セルアニメだって大変な労力が必要なのに、セル以外はそれ以上におそろしく気の遠くなる作業が必要になるからだ。セル以外のアニメは採算を度外視しなければやってられない(時間さえあればチマチマ一人で作業することも可能なんだけどね)。
世界のアニメ作家達がユーリ・ノルシュテインを尊敬するのは、ポエティックな内容や果敢な実験精神もさることながら、この普通以上に気の遠くなる作業をものすごいクオリティーで行っている点にあるのだと思う。
『話の話』で言えば、ドアから溢れ出る光にカメラが寄っていくシーンが2度ほどある。 最近のアニメなら透過光という技術を使って本当に光を使うだろう。この恩恵を最大限こうむったのが『北斗の拳』で、ドベーッとかブシャーッとかいうシーンはみんな透過光だった。ところがその少し前、例えば『ルパン三世』の頃はまだ透過光という技術が無い。ヘッドライトやサーチライトは基本的に“絵”で描いている。 当然ノルシュテインも“絵”のはずだ。だが描いている印象がない。本当にそこから光が溢れているようにまばゆい光。あるいは消えそうな焚き火のか細い光。何か特殊な技術を使っているのだろうか?と思うほどのリアリティー(実写と見紛うばかり、という意味ではない)。もしかすると本当に特殊な技術を使っているのかもしれないけど(ヘッドライトはどうやってるんだろう?)。光ばかりではない、あらゆる部分でリアルな質感が感じられる(しつこいようだが実写と見紛うばかり、という意味ではない)。
高いクオリティーはリアリティーとなって作品を支えている。「神は細部に宿る」というのが私の持論で、そもそも映画は元が“大嘘”なんだから細部まで嘘に見えてしまうと全体がグダグダになってしまうからだ。 宮崎駿は「土遊びもしたことない者が自然を描けるはずがない」と若いアニメーターに苦言を呈する。 「なるほどその通り」だとすると、ユーリー・ノルシュテインという人はとても豊かな人生経験を持つ人なのだろう。高い技術そのものよりも、その高い技術でリアリティーとして表現される豊かな人生経験(それもこれ見よがしではない控えめさで)こそ尊敬に値するのではないだろうか。
タルコフスキーやチェーホフやドストエフスキーを彷彿とさせる作品群を考えると、ロシアというお国柄が背景にあるのかもしれない。この国は本当に(文化的に)広大な国なんだなあ。
今回は違った意味での「アニメオタク」ぶりを露呈してしまった。
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