コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 野いちご(1957/スウェーデン)

何だろう?この完成してるのに枯れてない感じ。『処女の泉』が『羅生門』なら、『野いちご』は『東京物語』。
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「人付き合いとはその場にいない人の噂話をすること」という真理をさらっと言い放ち、「それが嫌で人付き合いをしなかった」という端的な言葉で“私”を紹介する。「今から“私の物語”を始めますよ」というアバンタイトルの教科書。もう完璧。ハートわしづかみ。俺ももう人付き合いしたくない。

比較的“分かりやすい作品”と言われているようですが、そうかなあ?表面上はそうかもしれないけど、実は結構難しいというか、いろんな解釈が可能な物語だと思うんです。やっぱり、そう簡単に正解は出てこない。そしてベルイマンらしい「映画館から逃げ出したくなるいたたまれなさ」も存分に味わえる。いやまあ、そんなもん味わって楽しいかって話もあるけど。

この映画で興味深いのは、母親や息子、回想の中の妻や兄弟といった身内はあまり良く描かない。むしろ、「悔改めよ」と諭すのは息子の嫁であり、祝福するのは呉越同舟の若者たちであり、赦しを与えるのは家政婦といった“他人=良き隣人”である点。だから、長年連れ添った家政婦が親しすぎることを拒む(=他人であり続けようとする)のは、物語として必然なんです。 そしてそれらは、劇中の詩に出てくる「神の足跡」なんでしょう。いや、むしろ、神はその足跡しか見せてくれない。

老人話ということよりもこうした“良き隣人”という点が『東京物語』に似ていると思うのですが、冒頭から「人付き合い」という伏線は明確に張られており、そこには「人を受け入れること」「赦す」ことが深く関わっていて、そしてそれは必ずしも「老人だから」という問題ではないと思うんです。

私がこの映画を「枯れていない」と思うのは、回想は決してノスタルジーではなく、“今”の“私”の問題として取り扱われるからなんだと思うのです。確かに人生を達観したような「完成」されたものを感じるのですが、説教じみることは決してなく、常に迷い、悩み続けている。この映画の主人公の旅路が、彼自身の人生の旅路を振り返ることと重なる。そして、『東京物語』同様、観る者にとっても何かしら重なるもの(予感も含めて)を感じる。

だからこの映画は、特殊な人間を扱った物語でもなければ、「老人だから」の物語でもない。当時まだ若かったベルイマン自身の物語でもあるし、人間にとっての普遍的な物語でもある。だから朽ちないのでしょう。

余談

よく知られた話だけど、主演のヴィクトル・シェストレムは「スウェーデン映画の父」とも言われる大御所監督で、ベルイマンは彼の『霊魂の不滅』という映画の『野いちご』への影響を認めているそうだ(主に夢のシーン)。私も『霊魂の不滅』は写真だけ見たことあるけど、馬車だったよ。 そしてウディ・アレンは『野いちご』(だけじゃないけど)からの影響を認めていて、「進化ってこういうことなんだなあ」と思う。 ウディ・アレンの『アニー・ホール』がその最たるものだと言われることがあるけど、私は『地球は女で回ってる』だと思うんだよなあ。

(13.08.15 渋谷ユーロスペースにてデジタルリマスター版を鑑賞)

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (2 人)緑雨[*] けにろん[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。