[コメント] ヤンヤン 夏の想い出(2000/台湾=日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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胎児のエコー検査のシーンに被さる、人工的な生命として人間と共存する新しいゲームの構想を語るイッセー尾形の声。終盤、少年による、ガールフレンドが数学教師と母娘共々寝ていたからその教師を刺した事件を、血塗れアクションゲームの映像として見せること。ゲームというデジタルなものに、人生観を投影してみせるのは面白いと言えなくもないが、ひょっとしたら、ゲーム=任天堂といった発想で、「日本」の象徴の一つだったのかとも思える。
実際、ヤンヤン父とかつての恋人が思い出を共有しつつ今の自分たちの思いをぶつけあう場は、ゲーム界のグル的存在らしいイッセー師匠と契約するために訪れた日本。師匠は「仕事という気分じゃないでしょう」「若いお二人」云々と、大いに精神的に回春しなさいと促してくれる。そして「若い」と言ってもらえた、ホントはそんなに若くもない二人は、神社という、いかにも古き良き日本映画的な場所で想いを伝えあう。撮っている方も、小津の映画にこんなシーンあったなぁ!なんていう高揚感と共に撮っていたんじゃないかと邪推してしまう(今風に言えば、まさに聖地巡礼)。
駅付近を歩く二人は、若き日に自分たちが出逢った場所に似ているね、なんてお喋りをしているが、そのシーンと交錯するのが、台湾でヤンヤン姉がボーイフレンドと、同じように夜の街をデートしているシーン。「今何時?」という会話を彼らが交わすと、日本の二人も時間を話題にし、互いの家族がいる台湾やアメリカとの時差を口にする。日本とは、彼らがその生活の場から時間的空間的に離れ、一緒になって青春の時に戻ることを許す、束の間の楽園となる。
だが、ヤンヤン父は、かつての自分が恋人に会いに行かず捨てたように、今度は自分が置いてきぼりにされる。長い時を超えて再び、今度こそ確実に心を交わし合ったように思えた彼女は、知らぬ間にホテルをチェックアウトしていた。台湾に帰ってから、昏睡状態が続いていた母は亡くなり、胡散くさいグルの許、山にこもっていた妻も帰宅。いわく、「眠るお義母さんに同じ話ばかりしていた自分が、今度は周りの人たちから同じ話を何度も聞かされる生活だった」と。つまり夫婦ともに、以前は自分の思いにばかり沈んでいたのが、反対側の人間の立場に置かれる経験を経たのだった。
ヤンヤンは、自宅マンションのエレベーターで、サングラスで顔を隠した女の顔を覗き込み、父に咎められると、反対側からだけでは、なんで哀しんでいるのか分からないからと答え、「半分の真実ってあるの?」と、哲学的な問いを投げかける。そこで語られる、自分が見ているものを他人に伝えるためにカメラがあるという話。これは、この映画そのものの存在証明のような台詞。思えば、アクションゲームでは相手を攻撃することしか考えられないが、映画は、それぞれに自立的な存在である他者の姿を、ただ彼彼女それ自身として映し出す。
ヤンヤン父が日本の飲み屋でイッセーにカードマジックを見せられるシーンでは、彼の「トリックはない。全てのカードを憶えているんです」という台詞と共に、なにか人生についての教訓めいたものを得るが、最後、二人が賭け事をやっていると決めつけている店員が顔を出し、「どっちが勝ったんです?」と訊く。二人の人間が向かい合う、或いはゲームをしている。その状況から、勝ち負けしか思い浮かばないということ。一見するとただの滑稽な台詞だが、実はこの映画の世界観と対照的に描かれている世間の価値観を象徴している。
父の教えに忠実なヤンヤン少年は、他人の後頭部ばかり写真に撮っていて、その暗喩かのように(というか、ベタな暗喩以外の何物でもなさそうだが)夜空に月が浮かんでいるシーンが挿入される。常に反対側だけをこちらに向けている月。ヤンヤン母が夫の前で、「お義母さんに語りかけようにも、数分で話が終わってしまう。バカみたい。自分の生活は空っぽ」と大泣きするシーンでも、背後の鏡が彼女の後姿を映し出していた。そしてこのシーンが、夫婦が互いのグルの許で、自分を見つめ直すためにいったん別れ別れになる分岐点ともなる。
上述してきたシーンの数々、どれもいかにも頭で撮っているなと感じさせるが、かなり下半身的なシーンでさえ頭で撮っているのが、ヤンヤンが、水風船を先生の脳天に落っことして怒られ、逃げ込んだ映画上映会場のシーン。先生の愛人のような扱いを子供たちからされている、ちょっと大人びた少女が、ヤンヤンのあとから入り、ドアノブにだか、スカートが引っかかり、白いパンティがヤンヤンの目の前に鮮やかに披露される。彼女はヤンヤンの存在にも気づいていない様子だ。スクリーン上では暗雲が空を走り、ナレーターが「…この二つが出遭い、衝突することで、雷が発生します。雷は、生命の源と言われています」。雷の蒼い閃光を映し出すスクリーンの前に立つ少女。少年の性の目覚め! 性は生命の起源なんだよ、男と女の出遭いの衝撃だよ、と。このパンティの白は、その後、プールで泳ぐ少女の水着の白としても、再び鮮やかに画面に咲く。
ヤンヤンが、お婆ちゃんの葬儀で、亡骸に向かって手紙を読むラストシーン。ここで、「最近、白い物を見るとお〇ん〇んが固くなるんだ。なんでだろう?」などと、かつて母に促されてそのときは拒んだ、「秘密」をお婆ちゃんに喋る、ということでも仕出かしていれば、子供らしい破壊性が感じられてなかなか面白い、となるんだけど、実際は、少年に最後、良いことを言わせて終わらせたい大人の意図が丸出しの長台詞に。そして、かつてお婆ちゃんがヤンヤンに「もう年だよ」と言ったように、ヤンヤン自身も、生まれたばかりの子に「もう年だよ」と言いたいよ、という言葉で締めくくられる。生を終えたお婆ちゃんの長い時間と、ヤンヤンの、これからの長い人生の時間が重なる、いい台詞……、として書きましたという意図があまりに見えすぎて、どうも素直に聞けない。そもそも、この最後の台詞に至るまでのヤンヤンの手紙が、よく書けすぎている上に長い。そうして、満を持して、とどめの名台詞。イヤな流れだな(笑)。
それより、ヤンヤン姉がお婆ちゃんの夢を見ているシーンで終わってほしかった。お婆ちゃんが昏睡から目覚め、その膝枕で、「これでようやく眠れる」と安心している少女の姿。彼女は、ひょっとしたら自分がゴミ出しを忘れていたから、お婆ちゃんが代わりにしてくれたことで、事故に遭ったのではないかという罪責感で、安眠できなくなっていたのだ。お婆ちゃんが、長い眠りから、あまりにもあっさりと目覚め、少女がそれを、驚きもなく受け入れていること、鼻歌のあとは一言も発しないお婆ちゃん。これは現実ではなく夢ではないかと、観客も気がつきはするのだが、その曖昧なままに映画を閉じればいいではないか。このシーンの静かな美しささえあれば、言葉はもう要らなかっただろう。
イッセーは天使的な存在として描かれていたように思え、ヘタをすると、彼が時々ふいに口にする日本語も、向こうの人たちには通じない、天使的な言語として用いられたのではないかと想像すると、なんだか居心地の悪い気分になる。それは邪推かもしれないが、ヤンヤン父の務める会社のシーンでは、窓の向こうで鳩たちが一斉に羽ばたくのが二度あったと思う。ビル内の連中は、その姿をいつも見ていたはずなのに、自由に飛び回る鳩のような生き方をしようとは考えず、目先の利益ばかり追いかけ、彼らの方こそがカゴの中の鳥。そして、イッセーは鳩と戯れ、その肩に乗せる。いかにも自由人らしい人柄が見えるのだが、天使的存在に翼を授ける、これもまたかなり直截的な演出だったかもしれない。
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