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[コメント] アヴァロン(2001/日=ポーランド)

「全ての映画は<アニメ>に」ならなかったことで判明する、押井守のスタンス表明。
カズ山さん

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







押井守の(実写)映画作品としては今現在で最高の出来、しかし、他の監督の映画作品と比べた場合には、とても素直だが平均的(もちろん私の主観的な平均)な作品。

この『アヴァロン』が公開される以前、『G.R.M』から始まる映画とアニメーションに関する押井監督の発言や文章等から、映画というメディアの視点・フレームに、それとは異質なアニメーションというメディアの視点・フレームで衝撃を与えようとしているのではないか? と個人的には解釈していた。つまり、この映画の宣伝文句にあったように「デジタルの地平で、全ての映画は<アニメ>になる」ということを。

しかし出来上がった『アヴァロン』にあったのは、映画というメディアのフレームの中に、コンテンツとして収められたアニメーション(とゲーム)だった。別な言い方をすれば、それ自身がメディアとして存在していたときに放っていた毒気を抜き、映画という受け皿にきれいに並べるため、きっちりと調理され、上品な料理に仕上げられたアニメーションとゲームなのだ。映画というフレームを壊さないよう、コンテンツ化されたアニメーションとゲーム。つまり「全ての映画は<アニメ>に」ならなかったのだ。

だが逆に、そこから見えてくるものがある。それは、押井守という人物が強烈に映画メディア的な視点を持っている、ということだ。

具体的に『アヴァロン』の内容がそれを示してはいないだろうか? たとえば映画の中には三つの世界が登場する。ひとつは主人公アッシュが熱中するゲームの世界、次はそのアッシュが暮らしている世界、そしてアッシュが最後に行き着くClass SAの世界。これはそのまま、押井監督が強い興味を持つメディア、つまりゲーム世界はゲームを、アッシュが暮らす世界はアニメーションを、そしてClass SAは映画を、それぞれ反映しているのではないだろうか? そう考えると、最後、Class SAにやって来たアッシュが「ここがわたしの現実(フィールド)」と決意する様は、まさに監督自身の「映画メディアが私の視点の存在する場所」という決意を表しているように思えるのだ。映画メディアに自身の視座を置き、そこを起点としてアニメーション、ゲームへと足を伸ばしていく押井守という人物。

それを踏まえると、アニメーション作品に取り組んでいるときの押井監督のユニークさが見えてくる。映画的視点しか持ち得ない人物が、まったく異質なアニメーションというフィールドに居る。手元にあるのはアニメーションを作るためのツールのみ。それでも彼は、自分の持つ視点には正直で、その状況下でも映画を作ろうとする。出来上がった作品は映画でもアニメーションでもなく、異質な視点がぶつかり合い火花を散らす、まさに「アニメーション映画」としか言いようのないもの。つまり、『アヴァロン』の宣伝文句を借りるとすれば、「全てのアニメは<映画>になる」ということなのだ。押井監督の劇場用アニメーション作品の面白さの源泉は、まさにそこにあるのではないだろうか?

アニメーションという異質な場所にいることで生まれる、刺激的な表現。映画という当然の場所にいることで生まれる、平凡な表現。監督押井守にとって、いったいどちらが幸せなのか?

(評価:★3)

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