[コメント] アヴァロン(2001/日=ポーランド)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
この『アヴァロン』と言う一本の映画全体を、「ドラクエ」や、「ウィザードリィ」の様には、実際の私たちの世界には存在しない「架空のロールプレイングゲーム」の“ほんのさわりの一部分”を、「映画化」したものだ、と考えると面白いと思います。(亀の背中に乗った世界のように)
『FF』は、「実在」するRPGを「映画化」したわけですが、それを、「架空の」RPGで、「映画化」したものが、この『アヴァロン』と考えました。
この架空のロールプレイングゲームの“クラス”「アヴァロン」(映画の前半のセピア部分に当たります)は、“フィールド”と、“ダンジョン”の二つから成り立っています。
「フィールド」は、繰り返される主人公プレイヤーの単調な、同じ画面(電車の中の乗客、アパートの外観など)が繰り返されるRPG的な日常生活で、「ダンジョン」は、“アヴァロン”と言う名のバトルゲーム世界。その世界でプレイヤーはHPを稼ぎ、フィールドの世界で、その稼ぎを武器や食物にする。
公開と同時期に発売された小説「灰色の貴婦人」は、この同じ架空のロールプレイングゲームを、別のプレイヤー(主人公)がプレイしたものを、今度は「小説化」したものだ、と考えながら合わせ読み、比較すると、この架空の名もなきゲームの、“クラス”「アヴァロン」から、“クラス”「リアル」に行くための[攻略法](フラグの立て方)が、さらにより多く解る気がします。(たとえば、●もちろん“クラス”「アヴァロン」ではAクラスのプレイヤーにまで成長する事●すでに先に“クラス”「リアル」に進んだ他のプレイヤーと接触する事●ロストした元チームメイトを病院に見舞う事●主人公(プレイヤー)は、かつてチームメイトを裏切った事がある事●九姉妹の謎を途中で知る事 など。)
“クラス”「リアル」(カラー部分)に到達したあと、主人公は「ここがおまえの“フィールド”だ」と言われますが、それは、「リアル」より、更にまた上の(そのまた上にも)「クラス」がある事の暗示の様な気がします。(ひょっとすると、クラス”アヴァロン”の前(下)にも、別のクラスがある、かも、知れないし(ないかな?))
一体この名もなきRPGを「最後(エンディング)」まで「クリア」するためには、どれほどのプレイヤー(この映画の場合は「アッシュ」)の労力を必要とするのでしょうか・・・・。
その終わりは示されてはいません。
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よくマスコミなどでは、「映像美の押井守」と言う表現を目にするような気がします。私だけの印象かもしれませんが。
でもそれは、キャメロンや、(自作にパクる為の)W兄弟などの、日本文化を新鮮に感じる欧米の視点や評価を、単に日本国内でのコマーシャリズムに利用しようとしているだけの賛美だと思います。
押井映画の映像は、極めてすばらしく独特だとは思いますが、そこまで「美しい」と思った事は、ありません。アヴァロンも、「押井監督にしては、ケルベロスからすると、ずいぶん頑張って(映画の)勉強をしたなあ・・・」と、しみじみ感慨深かったですが、相対的に見ると、まだまだ下手っぴなリュックベッソンと言うところだと思います。だから次回作の映画での成長が、今からとても楽しみです。
はっきり言って、押井作品の真髄は、「テキスト」と、「コンセプト」にこそあると思うのですが、それではやっぱりあんまり一般的な宣伝にはならないのでしょうか・・・。
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以前から感じていたのですが、押井監督の作品は、スクリーン上で観るよりも、テレビモニターで見る画面の方が、魅力的なような気がします。
「アヴァロン」も、テレビ画面で、日本語吹き替え版を見た方が、なんだか作品の「本来」の姿を見ているような気がしました。スクリーンで、ポーランド語版を観た時のような映画としての稚拙さをあまり感じず、素直に「映像美」さえも堪能出来ました。
個人的に「映画」でなければすぐれた作品ではない、というわけでもないので、表現の一つの何か新しい(買いかぶり?(笑))タイプなのだと思います。(でも「スクリーン上」で観る限りは、映画としてすぐれている方が好きです。そう言えば、『人狼』は、スクリーン上で観る方が(私には)魅力的でした)
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