[コメント] シェーン(1953/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
流れ者のカウボーイがやってきて、虐げられている人々を助け、再び旅に戻っていく。ストーリーだけを見る限りはいかにも西部劇らしいまことに単純且つオーソドックスな構成であるのだが、西部劇を代表する一本に挙げられるほどの作品。名作揃いのこの年において全米興行成績堂々の3位(尚、1位は『聖衣』で2位は『地上より永遠に』)を記録する。
この映画にはちょっとした思い出がある。
私には映画について話すことが好きな友人が何人かいるが、その中には議論好きな人間もいる。お互いに好きな映画の、どこが面白いかと言うことを分析し合ったり、時には真っ向から意見の対立した映画について議論をかわすこともある(激論のあげく、喧嘩別れしてしまった友人もいる)。本作は後者であり、私はこの作品をとても気に入っているのだが、彼はこれを「くだらない」と一言の元で切り捨ててしまった。
それから意見を言い合うのがとても楽しかったし、そのお陰で自分にとって、このオーソドックスな作品のどこが面白いのか、はっきりさせることも出来た。友人というのはありがたいものだ。
私は本作を「オーソドックス」と称したが、実はちょっと違う。実はそれまでの西部劇と本作は少し毛色が違っていた。この映画こそがその後の西部劇のオーソドックスを作り上げたのだ。
それまでの西部劇の主人公は、ここまで明確に弱いものを助けるという方向性を持っていなかった。むしろ自分自身に降りかかった問題を処理する。あるいは人から命令されたものを守るため。と言う方向性の方が強かったくらい。西部劇だったらそれが出来た。なにせアメリカには明確な敵としてネイティヴ・アメリカンを登場させることが出来たから。彼らを敵に仕上げることによって、西部の男達は皆一致団結して戦うことが出来たのだ。だからこそ、以前は開拓民とカウボーイは一心同体であり、共に共通の敵と戦うことが出来た。たとえ途中で心が離れてしまったとしても、最終的には同じ敵に対し一致団結してぶつかっていくことになる。
だがしかし、本作にはネイティヴ・アメリカンは登場しない。ここにいるのは額に汗してなんとかこの土地に作物を実らせようとする開拓民の一家と、その土地を狙うカウボーイ達。一見して立場の違いは明らかだ。主人公の側は、立場の弱い、それでも夢を持つ開拓民で、それに対しカウボーイ達は悪人になってる。当時それは全く価値観を逆転させるものだったのだ。本来カウボーイこそが西部代表する男達であり、開拓民は彼らに守られる役を担っていた。その守る側であるはずのカウボーイを悪として描いた。先ずこれが卓見。そして主人公側を守る人間も、やはりカウボーイである。彼は流れ者で非常に強い。彼も又、同業者であるカウボーイの群れに入り、抑圧する方に変わることも出来たのに、敢えて開拓民の側に立っている。
この構図を考えてみると、一つの映画によく似た構図であることに気づく。実は翌年に公開されることになる邦画、黒澤明監督の『七人の侍』(1954)とよく似ていると言うことに(日本には身分制度があったため、こちらの方がより明確にその事を示していたが)。奇しくも一年前後して、同じテーマがアメリカと日本で作られたと言うのが興味深い。
しかも本作品の面白いところは(これも『七人の侍』にも通じるのだが)、決して強いものがお情けで弱いものを守っているというわけではないこと。シェーンも又、この一家に精神的に依存している。つまり彼も又、この家にいることで守られているのだ。ここに共生関係が成り立っているのだが、それを克明に描くことで、シェーンという人物が、分かちがたく強さと弱さの両面を持っていることを印象づけてくれる。
そして私が一番本作で評価したいのは、シェーンがひたすら耐えている姿を映しだしたこと。
彼は耐える。本業でない開拓の手伝いに、同業者であるカウボーイ達が投げかける嘲笑に、そして恋心に。
彼は耐える。耐えて耐えて、そして最後に爆発する。このカタルシスのすごさ、格好良さ。このタメが上手く作られていたことを一番評価したい。邦画の任侠ものに相通じるのだが、最後の爆発、つまり見せ場を演出するために、ひたすら主人公に耐えさせる描写が必要であり、しかもその耐えている部分で飽きさせないようにする事。それが本作の一番の重要な部分であり、本当にしっかり演出できている。日本で本作が評価されているのはむべなるかな。日本の任侠映画は、西部劇、その中でも特に本作の影響が強いと思うほど。それにより本作のカタルシスは溜飲の下がる思いをして歓声を上げて観ることが出来る。
しかし、物語はそこで終わらない。一旦爆発してしまった以上は、彼はもうそこにはいられなくなってしまう(シェーンはここにいたかったから爆発を抑えていたのでは?)。ここまでスターレット一家のために働いておきながら、実はシェーンと彼らの間の溝は埋まるどころかますます広がってしまっていた。途中までシェーンもスターレット一家も、カウボーイとしての彼の異質な部分を減らそう、考えないようにしよう。と言う方向性に向かっていったのだが、最後の最後でやはりカウボーイは開拓民とは異質なものであることを明確にしてしまった。そんな彼がここに留まることは出来ない。カウボーイとしてしか生きられない彼がここに留まれば決して良い結果にはならないから。故にこそ、あそこで去るシェーンは確かにカウボーイとの戦いには勝ったけど、開拓民との交流には失敗している。トータルで言うなら彼は決して勝ってはいないのだ。
そのことが分からない少年を引き合いに出すことで、彼が去るラスト・シーンは言うまでもなく全映画における名シーンとして記憶され得る。
これを可能としたのは、監督があまり西部劇を得意としない人だったから。これまでの西部劇のセオリーを無視し、そのリアルで抒情的な雰囲気を演出することでシェーンという人物を魅力的に描けた。主題曲の「遥かなる山の呼び声」に乗せて始まるオープニングだって、それまではあんな牧歌的なものを作ろうと思わなかっただろう。
そしてそれまでB級アクションスターだったアラン=ラッドを一気にメジャーに押し上げた作品だったが、このイメージがあまりにも強すぎたのは、その後の彼の役者人生に暗い影を投げかけることになってしまったのは皮肉な話(それでも一生当たり役に恵まれない役者の方が多いのだから、幸運だと言っても良いか?)。
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