[コメント] 新学期 操行ゼロ(1933/仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
映画の運動は上昇を目指している。生徒たちの叛乱はほとんど軽薄なほどに軽い。チャップリンのステップ、かの有名な飛翔する羽毛、ラストシーンの屋根の上でのステップ、全てが上昇運動として呼応している。革命は軽さを目指す。リアリズムは無視されており、寓話の印象を残す。以降の重苦しい革命映画の歴史は小人の校長が起こしたようなもので本作の理想とは正反対。本作は今でもひとつの典型として屹立している。
チャップリンのユゲ先生(ジャン・ダステ)はフランスらしい自国中心主義を揶揄っているだろう。彼は生徒を町中に先導しているのに女を追いかけて自らはぐれてしまうが、実に出鱈目に生徒らと遭遇して再合流する。この石畳の空間処理が素敵だ。アナーキストはチャップリンを、その軽さを必要としている。本作の前年、チャップリンは来日し、「廃退文化の元凶」として5・15事件の巻き添えになりかけている(そして後年、赤狩りに合う)。
当時、子供の叛乱を肯定的に描くのはタブーだった。これを踏まえて観なければいけない。本作が33年に撮られているのは驚嘆に値する。『嘆きの天使』(30年)では生徒の叛乱はヤニングスの先生の遭遇する最悪の出来事のひとつだった。ハリウッドで『暴力教室』や『理由なき反抗』が撮られたのは55年。本作の注釈と云うべき『大人は判ってくれない』は59年。『長距離ランナーの孤独』は62年。しかもどれもこの元祖よりナイーブだ。昔の映画を観ている人ならご存知のはず。アッケラカンとこれを破った蛮勇は、その後の学園混乱ドラマにおける集団心理の爆発の典型を射止めており、かつ今日の尺度でも過激だ(正統な後継者は『小さな恋のメロディ』だろう)。
「上映中に場内の明りが何度となくつけられ、最後はほとんど乱闘の中で終わった」。本作の試写は混乱、その後上映禁止は戦後まで解けなかった。音楽の「春の祭典」、演劇の「ゴドーを待ちながら」と並ぶ初演の三大波乱と云っていいんじゃないのだろうか。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (5 人) | [*] [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。