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[コメント] 将軍たちの夜(1967/英=仏)

仮投稿。あとで推敲する。
らむたら

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







将軍たちの夜』というタイトルがあらわしているように、売春婦が殺された夜のアリバイがない疑わしき三人の将軍の誰が犯人なのか? というフーダニット的と誰もが思うであろう冒頭、そして映画の展開への観客の希望は、黒魔羅さんが指摘するピーター・オトゥールの登場によって台無しにされてしまう。「誰がどうみてもお前が一番怪しいだろっ!」と思わず突っ込む。「いや、偽装か、怪しいと見せかけて……」とも思って、顔を見たこともないアナトール・リトバク監督との騙し合いにも似た心理戦が水面下で展開される。だが、この映画の演出は骨格ががっちりしてて、そんな柔軟で優雅な洒落っ気は微塵も感じられない。それで、いきなり誰が犯人かわかってしまう。そもそもフーダニットだったのか? という自問が擡げる。監督自身もどうあがいても妖しいピーター・オトゥールを起用すれば不可避的に怪しまれることのリスクを計算しないはずはないから。だとすれば、謎解きよりも、この映画の魅力はオトゥール演ずるナチスの象徴のような将軍(以下О)自身にあり、また○○(度忘れ)であることによって、いかにしてОが逮捕されるに至ったか? にあるのだろう。

Оは妖しくて怪しい。男の癖に変な化粧をしていることからして怪しいが、性格付けがこれみよがしに異様だ。しかし反面非常に魅力的でもある。過度の潔癖症で、極端に残虐、過激な教条主義者(ヒトラーを盲信)。まさにナチスの象徴のようなエリート。過度の潔癖症であって他人の(彼の極端な価値観に照らしてだが)怠慢や不潔に対して異常な憤りと憎悪を覚えてサディスティックに攻撃的になるのは、ナチスがアーリア民族の優位を唱えて、ユダヤ人やスラブ人を最下位に、全ての民族を下位に置いて、狂信的なジェノサイドを図った民族的潔癖さに通じるし、そのサディスティックな残虐さはナチスのまさに本質。

この映画ではОの精神分析をするだけの材料(特にОの生い立ちや家庭環境など)が与えられてないため不明な点が多いが、不明であり曖昧であるが故にかえって魅力を増しているところが多分にある。例えばなぜ売春婦を狙って殺すのか不明だ。彼の潔癖症からして売春婦が「死に値する」ほど肉体的にも存在的にも穢れていて、「殺されて然るべきだから」ということなのだろうけど、そういった女性蔑視的な性格の醸成の原因を想像する鍵すら与えられてない。まるで売春婦を殺すことも性格定義の一環であり、異常な性格のОの魅力を増すために必要なのだ、といわんばかり。実際にその意図が失敗していたら、“問題”が浮き彫りになって将軍の魅力だけでなく映画の魅力そのものを損なうが、成功していると思われるだけに“問題”は表面化しない。その問題とは目的(大儀、理想)のために手段を正当化するような全体主義的な狙い。実は目的(大儀、理想)のために手段を正当化するというのは極めてナチス的(優等な子孫の存続のために精神病患者や障害者を殺したことや勝手に劣等民族と決めつけた民族に対するジェノサイドを想起してもらえば分かるけど)で、ナチスの病理を抉り出して白日に晒す映画を撮りつつ、どこかその手段がナチス的に汚染されていると嗅覚の鋭い人の中には勘ぐる人もいると思う。だけどそれは勘ぐりすぎといえるだろう。なぜならピーター・オトゥールが魅力的なのは彼の罪ではないから。その彼を起用した製作者がその魅力を異常性格のナチスの将軍というマイナス面で増したからといって、それが罪だというのは言い掛り。ナチス的な価値観は否定されるべきであっても、人の暗部の琴線に触れ、どうしてもマイナスの魅力に惹かれずにはいられない。でなければ、ナチス関連の本や映画がいまだに市場に大量に登場するわけないから。

ここで5日ほど忙しくって書けなかった……何を書いてたのか……?

あっと、思い出したぞ、るんるん♪ ナチスというのは映画では否定されて然るべき存在。殆どの映画で残虐な悪役を演じ、勧善懲悪の餌食になる。それはナチスのなしたことを考慮すれば当然。だが、この映画のOはオトゥールの魅力と相俟って

(評価:★4)

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