[コメント] ドラえもん のび太の魔界大冒険(1984/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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スプラッタの恐怖というのは唐突さとグロさである。死霊のなんちゃらとか。ホラーの恐怖というのはわけのわからなさである。シャイニングとか。
この映画の怖さはどちらか。 藤子不二夫の絵を見るに、前者であるわけがない。
しかし後者だろうか。僕は、そこには若干の異議を唱えたい。 この映画、論理的にはすごくツジツマが合っている。それにハッピーエンドだ。 悪役もどことなく愛嬌があるし、もしもボックスというひみつ道具が前提となっている以上、「こんな事になったらどうしよう」はさらさらない。
では何か。
単に、見たのが子供だから怖かったのだろうか。 違う。少なくとも僕は、今この年になってもこの映画の怖さを記憶しているし、再現できる。やはり怖い。
多分、この作品は「ドラえもんでもどうにもならない」という表現が とても明確なのだと思う。
ドラえもんという作品は、基本的にはご都合主義である。 ドラえもんがいればなんでもどうにでもなる。 そのドラえもんが、敵に完全敗北するのがこの作品だ。
この作品における恐怖の対象は、大魔王デマオンではない。 時の流れを乗り越える能力を持つメデューサだ。
このキャラクターに、主人公たるドラえもんとのび太は、 智恵と力を尽くして完全に敗北する。
ドラえもんがあわててたとかのび太がアホだとか、 それはこの作品ではよくあるパターンだ。
その場合はお約束であり、たとえそれが原因で二人が負けても、 「ああよかった。またやってる」に過ぎない。 その先があるだろう、さあここから反撃だ、と予測させてくれる。
ところが、このメデューサに対峙する二人は 「本来するべきことをしない」「するべき事はわかっているが欲が出た」 のようなロジックのある失敗をしていない。 ただただメデューサの強力な能力に敗北する。
今までの「ドラえもんがいればどうにでもなる」 という子供心を完膚なきまでに叩き潰してしまい、 悪役が完全勝利してしまうのである。
この、巧みな反則の使い方がこの作品の白眉だと僕は思う。
敗北した二人が冒頭に登場するという連鎖を理解した時点で、 僕たちはこの作品の性質を理解し、当惑し、絶望してしまう。
「出口があると思ってたけど実はなかった」というこの部分が 一番恐怖を演出できているのではないか。僕はそう考えている。
他になぞらえてもあまり意味はないかもしれないが、あえて言うなら、 北野版座頭市で、北野たけし扮する座頭市が浅野忠信と勝負するとき、 座頭市が使った戦法に近いと思う(見てない方ごめんなさい)
後半の逆転劇は、僕の目からは結構蛇足に見える。 しかしこれがなかったら、映画館で暴動が起こったかもしれない(笑)。
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