[コメント] セリーヌとジュリーは舟でゆく(1974/仏)
即興的意思決定の横溢した撮影現場だったろうことも多分に見て取れる痕跡も残っているのだが、それでも、決して行き当たりばったりとは思えない、恐るべき構築力なのだ。より表面的なフォーマットで云っても、いい加減な(特に構図としての厳格さを欠く)リバースショットの氾濫とジャンプカットの頻発が、演出の緩さを感じさせるけれど、その一方で、ズーミングは一切使われないという厳しさも持っているのである。あのズーミングの世界的大流行をみた、1970年代前半に製作された映画であるにも拘らずだ。
さて、様々な象徴とモチーフの仕掛けがほどこされた面白いシーン・シーケンスばかりで、書き出すとキリがないですが、いくつか書いておきましょう。
ジュリーのアパートの階段に、足に怪我をしているセリーヌ−ジュリエット・ベルトが忽然と現れる場面。部屋へ入れ、手当をすることで2人の共謀関係が生まれてくるのだが、この後、全編に亘って、血と手当と看護のモチーフが出現する。続いて、セリーヌがジュリー−ドミニク・ラブリエになりすまし、ジュリーの恋人と会うシーン。久しぶりの再会で、別人であることが分からないまゝ、破局を迎えるのだが、公園の中での不思議なダンスシーンが可笑しい。こゝでは、公園の子供達も2人を見て笑っており、ゲリラ的撮影だったことがよく分かる。こういったキャラクターのなりすまし、入れ替わりはもう数えきれないぐらいに頻出する。例えば、セリーヌはキャバレーでマジックのショウをしているのだが、後半でジュリーが出演し、ディートリッヒばりに唄うシーンがある。このキャバレーの場面、ピアノの伴奏がいいし、とても楽しい。
後半は、マリー=フランス・ピジェ、ビュル・オジエ、バーベット・シュローダーといったスター達が登場する邸宅を舞台とし、時空の交錯とシーンの反復が描かれて、もうメチャクチャな展開となるのだが、セリーヌとジュリーがまるで2人で映画を見るように、自分達の当事者としての顛末を含めた、その成り行きを喜々として見つめるというメタな世界が繰り広げられる。しかし、純粋に映画を見るということは、こういう行為なのではないだろうか、と思わせるのだ。
エピローグはプロローグの逆さまで、云わばアリスとウサギの関係が逆転する。しかし、これは単なる夢オチ、という感覚からはるかに遠い。ルイス・キャロルにも似た、恐るべき構築力だと感じさせるのだ。
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