[コメント] フランケンシュタイン対地底怪獣(1965/日)
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聖母である水野久美の慈愛のまなざしの中、主人公は民人に石もて追われつつおのれを誘惑する悪魔たちの囁きに晒され続ける。水野とニック・アダムスのみが変わらぬ庇護者であり、他の人々に同じくユダたる高島忠夫すらも主人公を我欲のために売り飛ばそうとする。
そんな「フランケン」を、巨大な同類…悪魔たちは誘惑する。おまえを愛する者などいるものか。皆がおまえを唾棄するのなら、むしろ暴力と恐怖でこの国を「conquer」してみろよ。人間の肉は旨いぞ。さあ、食らうがいい。だが彼の意志は強固であり、「ヒト」たることに拘ってユダたる高島こそを救うのだ。そして悪魔…バラゴンを地中に追い落とす。
こうした見立てがあながち遊戯とのみしか言い切れないわけではないのは、ひとえに海外版の存在があるからだ。欧米において「悪魔の魚」であるタコは、まるで「機械仕掛の邪神」のようにフランケンの前に現われ、一方的にまだ格闘能力を残す彼を湖に引きずり込む。誰もその出現と行動に驚かないのは、魔王の一般的メタファーに他ならないのがタコだからだ。それまでフランケンの戦いに一喜一憂していた科学者連中は、なぜかタコとの戦いのあっけない終わりを認め、「彼は死んだのかしら」などとうつろな目で話をまとめようとする。やはりその裏にはアナロジーを認めざるを得ないだろう。
僅かな人々にしか希望を残さず、神の子はこの国土でいつ絶えるとも知れない戦いから、ひとまず魔王の仲裁に邪魔されながら退場する。その続編『サンダ対ガイラ』においても決着はつかず、異形の神の子は舞台を変えてスクリーン上を跋扈することになるわけだが、人間絶対主義の欧米観客のためには救世主は一度死ぬことが肝要だった。一方「八百万の神」が林立する日本において「怪獣の救世主」はこれ以後定番の存在となるわけだが、そんなラストの差に思いを馳せれば、ふたつの終幕は非常に興味深い。
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