[コメント] クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲(2001/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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オトナたちが生きる世界は、遠近法の世界。そこでは、未来は、遠近法を支える消失点、その先にある。存在している(ように見える)のに決して到達しえない、架空の虚焦点。でもその虚焦点じたいがなくなってしまうと、遠近法の世界は崩壊する。だからたとえ現実にはやってこないものであれ、ほんとうは、その未来の不在そのものによって、ようやく世界は支えられてもいるのだ。もし、未来の不在が気に入らなければ、そんな不安定なものに支えられた世界が気に入らなければ、遠近法そのものを崩壊(終末=アルマゲドン)させてしまうか、虚焦点とは逆の方向へと歩みを進めるか(ノスタルジア)、しかない。
ところで、『クレヨンしんちゃん』の舞台である「カスカベ」は、いつだってまるでゲーム画面のようにフラットでのっぺりとした世界だ。そんな世界を庭のようにして生きるしんちゃんたちにとって、消失点の先にある未来なんてものはそもそも存在しない。だから彼らは、最初から存在しないものの不在(喪失)を悲嘆することなどないし、オトナたちのノスタルジアなど理解しようもない。けれども、身近なオトナ(つまり両親)が、自分たちには理解できない理由で自分たちの元を離れていこうとし、自分たちの生きる世界を脅かそうとしているのであれば、それはなんとしてでも阻止するしかない。だってそこにしか現実がないし、彼らには現実しかないのだから。
過去への懐古と感傷に浸るノスタルジアではなく、来たるべき明るい未来への希望(とその裏返しの終末観)でもなく、地に足つけた現実を生きる道を選ぶこと。オトナたちの生きる遠近法の世界と、しんちゃんたちの生きるのっぺりした世界とをつなぎ、両者を同時に肯定できるような現実を模索すること。
でも現実とは、単調で退屈な日常の反復、同じところをグルグルと回りつづける、その繰り返しでしかないのかも知れない。その退屈さはいつかまた倦怠と絶望を呼び込むのかも知れない。だがそれゆえに、映画のクライマックス、タワーの屋上へと至る螺旋階段を、しんちゃんがこけつまろびつ「グルグルと駆け上ってゆく」シーンは胸を打つのだ。同じことの繰り返しは、だが確実に螺旋運動のように僕らを高く高く導いてくれるのかも知れない、という希望がそこには秘められているがゆえに。
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