[コメント] A.I.(2001/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
先日、知人から‘80年代にキューブリックが書いた脚本とやらを見せてもらった(真偽は不明)。全然、コレとは違った。相違点をあげてみると、
・冷凍睡眠中の子供は「息子」ではなく「娘」。
・子供の病気が原因で、母親はアル中。デイビッドに対する愛情は無く、デイビッドからの一方通行。
・本当の子供にいじめられるのではなく、単なる母親のエゴで不必要になる。
・捨ててこられるのではなく、追い出す。
・ジゴロのジョーとすぐに会うのではなく、しばらく経ってから。
・ジゴロのジョーはデイビッドより新型で、変形能力と豊かな感情を持つ。
・ブルー・フェアリー=ジョー(変形するから)。
・ロボット破壊ショー(名前忘れた)は無く、マンハッタンがロボットを酷使する工場。
・そこでジョーは危険視され破壊される。デイビッドはバッテリーがなくなるまで働かされ、放置。
・2000年後(これはあり)、人類は死に絶え、進化したロボット(宇宙人じゃないみたい)が地球を支配していて、彼らがデイビッドを発掘再生する。
・遺伝子から再生するのではなく、記憶を現実化する。
・現実化された記憶では、父親の顔はボケており、娘の部屋は壁の穴でしかない。
・エンディングは2つ用意されていて、一つは椅子に座っている母親のところへ、デイビッドが微笑みながら、歩み寄っていくところで終わる。もう一つは、母親に近づこうとした瞬間に、現実化する機械の故障で、目の前で母親の姿が消える。
以上なんですが、こうしてみると、こっちのはキューブリック色が濃く表れてませんか?特に現実化された世界での父親や娘の描き方。母親はアル中でデイビッドに対して微塵の愛情も見せなかったのに、それでもデイビッドは刷り込まれた母親への愛情によって母親の記憶を鮮明に思い出すという、「作られた愛情」の狂気みたいなのが表現されてて。ジゴロのジョーはやっぱりブルー・フェアリーだし。
スピルバーグ脚本では、視点が明らかに変わってる。キューブリックでは、デイビッドは『2001年』のハル的に客観的な対象として描かれてるのに対して、スピルバーグは観客の感情移入の対象としての主人公として描いている。つまり前者では対象化され、後者では主観化されてる。そこでスピルバーグ作品で感じる違和感が現れて来るんだと思う。設定の段階で、デイビッドは感情移入できる対象ではない(プログラムされた愛情はあっても感情は無い)。一方で、感情がある最新型のジョーには感情移入しやすいはずなので、キューブリックならジョーを主人公にしていたかも、と言う指摘は的を射ていると思った。実際、スピルバーグはそんなこと完全に無視して、ジョーを感情の無い旧型にしてしまったのだが…。
キューブリックは生前、スピルバーグに監督をと言っていたようだが本当?もし本当だとしても、制作・脚本は本人がやるつもりで言ったんじゃねーの?って思う。それくらい、スピルバーグはこの作品の監督には向いてないと思う。実力とかじゃなくてベクトルとして。実際、キューブリックの意図は無視されている。
…これだけ言っておいて、このキューブリックの脚本とやらがバッタモンだったら恥ずかしいな。
※こういう批判を書くと単なる相対主義だと言われそうだが、キューブリックの名前があるからこそ見に行ったわけで、キューブリックとの比較は避けられない。キューブリック抜きなら見てさえいなかったわけだから。
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