[コメント] 馬鹿が戦車でやって来る(1964/日)
同時代の大島渚が描いた被差別者が向かう先が起爆や反乱であり、今村昌平のそれは強かな居直りだった。山田洋次は、サブ(ハナ肇)を新しい路の開拓者として描く。その路を放心唖然とたどる差別者たる村人たち。そして幸福の極みにあるカップル。
被差別者の積年の憤怒の上を、そ知らぬ顔で、あるいは見て見ぬふりという加担を繰り返しながら、ぬくぬくと歩んで来たのが我々の歴史だということも事実だ。我々が何気なく暮らす日常の底辺には、我々が何気なく差別した者、虐げた者、そして人生をさすらう者たちが生きるための必然として作り上げてきた路が存在するのだということを山田洋次は言いたかったのだ。賛否は承知だが、この一見、後ろ向きのベクトルのようににさえ感じる見解もまた真実だと思う。
兵六(犬塚弘)の飛翔願望を見ていて、『学校2』 (96)で山田が養護学校の生徒である高志(吉岡秀隆)と佑矢(神戸浩)に、熱気球によるつたない飛行を準備していたのを思い出した。本作から30数年を経て、やっと彼らは飛ぶことができたのだ。山田にどんな心境の変化があったのかは分からない。ただ、初期の作品にたぎっている山田の執念と毒は、現在の作品群の底辺にも脈々と流れているように見える。それが、現代劇であれ時代劇であれ、山田洋次映画特有の不思議なリアルさのもとになっているのだろう。
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