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[コメント] 馬鹿が戦車でやって来る(1964/日)

フーコーの狂気論の挿話のような村落世界
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







山田洋次は作品に「馬鹿」を登場させる頻度がずば抜けて高い。最近の『たそがれ清兵衛』でも、特に脈絡もなく精薄者を登場させていた。放送コードばかり気にする連中にはとても撮れまいと云っているかのようだ。大島の朝鮮人と同じで、作品のどこかにいるという扱いに拘りを感じる。

なかでも本作の犬塚弘は出色の出来だろう。『本日休診』の三國連太郎が想起されるが、戦争批判のために登場した後者のような意味を背負わされてはいない。フーコーのいう中世・ルネサンス期の、病人として収容される以前の、村や町に居た狂人とはこういうイメージなのだと、傍証を与えてくれる。もちろん「馬鹿」として扱われるのはドン・キホーテも同じであるが、しかし別に表立って差別される訳でもない(当節の言葉狩り以降の常識で観てはいけないのであって、当時「気違い」と呼ぶのは表立った差別ではない)、いるんだからしょうがないやという、その距離感がリアルだと思う。そして他方では、人間の理性を超えた者として現れることもある。岩下志麻の感受性がこの立場を代表している(私は岩下を美人と思ったことは一度もなかったが、本作の彼女は水も滴るいい女で驚いた)。「六ちゃんは鳥になった」という思い込みはそれこそ狂気であるが、とても美しい。美にとって狂気とは何であろうか。

なお、犬塚がいいのでハナ肇はどうでもよくなったのだが、彼の造形についてもうひとつ判らないのが本作の弱いところで、鳥になった犬塚をなぜ海に埋葬するのかも判らないし、民家を壊しまくって逃げてしまう収束もどう捉えてよいか判らず弱い(なお、彼は村落共同体らしいイジメにあっていたのであり、差別は受けていない)。

本作、映画としては大衆演劇の実写版という趣が強い。村の街道にキャメラを据えて、殆ど片側(村の入り口からみて左側)の民家やお寺ばかりを撮っており、この偏執狂的なフレーム選択が舞台の拡大版みたいな印象を与えている。右側は田圃ばかりで、戦車が走り回り始めると忽然と姿を現すことになり、あくまで大衆演劇っぽく、観客の方向感覚を錯乱させ始める。あのような小さな戦車があったのは驚き。妙にスピードが出るのがまた驚きであった。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] ぽんしゅう[*]

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