[コメント] 千と千尋の神隠し(2001/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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屈折した「少女愛」
この作品では、大宮崎も下界にずいぶんと近づき、そのメッセージは「豚のように食うな」「川を汚すな」と平易なものが並ぶ。しかし……その舞台で活躍する「少女」はなんと湯屋で働かされてしまっている。
まず、このご時世に、どういったシチュエーションであれ寓意であれ、少女が搾取労働を強いられる、というストーリーを表わしたことに驚いてしまう。今や「サッカーボールはアジア諸国での少年少女の労働によって製造されたものが多い。そういうボールを公認球に使うな」とのアピールがアムネスティから出され、各国のリーグ関係者が困惑してしまうような時代なのに……である。
次に、あの温泉町や湯屋というものは、そもそもどういう場所、施設なのかということを考証すると、「油屋」は少なくとも湯屋であり、かつ酒食や宿泊を提供しているようだ。
江戸期の民俗学的風俗学的資料に照らすと、「湯屋」といえばもちろん現代の銭湯にあたるものでもあり、またその一部は当局黙認の非合法売春施設であった(『忠臣蔵外伝四谷怪談』で佐藤浩市と高岡早紀が出会った場所もその一)。当時の江戸では、合法の売春施設はあくまでも吉原のみに置かれ、その他は岡場所(「非吉原」の意)と呼ばれる地域で、旅館や茶屋、湯屋といったところが、売春婦の提供や斡旋を、当局の暗黙の了解の元に行っていた。
また、「油屋」の建物の内部描写は、遊廓のそれに似ている。例えば沖縄には、観光客に酒食を提供しながら琉球舞踊を見せる、といった料亭が散見されるが、そのいくつかはかつての赤線地帯にあった、大きな旅館(というか売春施設)、まさにその建物である。そういった施設と「油屋」の建築物としての類似性をして、やはりあれは売春施設ではないか、という印象は拭えない。旧ルパン三世の制作当時、アニメーターの人たちはルパンの車のモデルになった宮崎の車(フィアット)を、スタジオの前で裏返してまでスケッチしていたそうだが、今回の美術設定にもフィールドワークはあったのだろうか。
湯屋の管理者湯婆婆は、千尋の名から一字を奪い「千」に変え、それによって彼女を支配すると宣言する。しかし、それこそが彼女の優しさだ。風俗や水商売で働く女性が源氏名を名乗るのは、その世界で本名を名乗ると、もう元の世界には帰れなくなる、というゲンかつぎからとされている。そう考えると、千がその名を収奪されるのも、湯屋というところが少なくとも水商売だ、ということの傍証であり、かつ、彼女がいずれは元の世界に帰還できることの約束、ということにもなる。
千尋が日常の労働に使役させられる描写は「置き屋の半玉」どころか、「遊廓の禿」といったあたりの様子だ。もちろん「油屋は人間世界のそれとは違う」という言い訳が用意されているのかもしれないが、それにしても、源氏名までつけられ、禿にされてしまうのでは、千尋があわれすぎる。どんなメッセージがこめられていようと、少女を売春施設ともとれる場所で搾取労働に従事させるような物語に、何の正義があるのだろうか。「他人の為に何かすること」を学ぶのであれば、どんな労働形態をしても良しとするのか? それなら、援助交際をする少女たちが、結果として得るであろう「擦れた処世観」にもリスペクトを支払わねばなるまい。
宮崎世界の、少女”のみ”を用いたストーリーテリングも、ここまで徹底されれば、もうぐうの音もでない。少女の他は異形の者しか登場しないのも、これまたいつものお約束。それほどまでに生身の女性の描写を拒否することも、一心に愛すべき「少女」を搾取労働に就かせるのも、女性そのものの本質に対する恐怖故か?
また、千を守護する少年も、結局は人外のもの、というオチはやはり成長した少女を突き放す、という点において『魔女の宅急便』と同様だ。同じような構図で少女の成長を描き、しかる後に”成長”してしまった少女を突き放す。それは父性愛でもなんでもない。少女買春に東南アジアにでかけた男性が、次に訪れたときには違う少女と同衾する、といった破廉恥な使い捨ての図式でしかない。彼は、成長してしまった少女には興味を持てないのだ。
ともあれ、確かな技術と表現力によって、見るものを魅惑する力量があるのは否定できない事実だ。しかし、そのきらびやかな作品世界の裏側に、彼が隠し持つ屈折した自己愛と、傲慢な感性の存在を感じずにはいられなかった。この人(宮崎駿)は最初から晩年のクロサワ(字は天皇でも巨匠でも……)のような場所からスタートしてしまっているが、それこそがある種の不幸だったのだろう(黒澤明は、若い頃にはキラキラもギラギラもしてので、まだ救いがあるようにも思える)。
それゆえ、三大映画賞の一角を授与されても、礼に欠ける態度で平然としていられるだろうし、追悼コメントにおいて物故者を辛辣に批判をするようなこともできるのだろう(拙コメント『もののけ姫』参照)。「王様はハダカだ」と誰かが言い出せないものなのだろうか? 少なくとも新橋や小金井、三鷹にはいないようである。それとも王様は”裸”なのではなく”ロバ”の耳を持ち、秘密を知った床屋はみんな殺されてしまった、とでもいうのであろうか。
宮崎さん、あなたの才能や技術には本当に頭が下がります。しかし、非礼さを初めとする人間性や性向は、到底受け入れられるものではありません。
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