[コメント] 昭和枯れすすき(1975/日)
藤田敏八作品でブレークした直後の作品だった。あの頃、少年だった僕らは皆秋吉久美子に「吸い込まれていった」。けっして「萌えた」のではない。何故なら彼女は常に「何か」を発信していたから。だけどそれが今でも何かは分からない。
とても真っ当な作りの作品である。可も無く不可も無く。
高橋英樹は当然のように良い芝居をし、『砂の器』という邦画史に残るであろう名作を撮り終えたばかりの野村芳太郎監督は当然のように安定した娯楽作品を提供してくれた。
だからこそ、皆の関心は秋吉久美子に集まるのだろう。そしてここで彼女は魅せた。
兄にとっては唯一の家族であり、一緒に辛酸を舐めて生きてきた妹。兄にとってはどんな事があっても幸せになってもらいたい、その願いこそが自分の支えでもある。しかし「東京」はそんな可愛い「妹」を、兄の知らないところで堕落した「おんな」に変化させてしまっていた。
冒頭はそんな「妹」を、そして次第に「おんな」に変わっていく様を秋吉久美子は見事に表現しきっていた。上映時間を追う毎に綺麗になっていく秋吉久美子があった。だが、ただ外見だけの変化じゃなくて、少女とおんなの中間に位置する微妙な時間帯を彼女は演じきっているんですよね。
現代の感覚からすれば当時の彼女は「不思議ちゃん」と呼ばれるような位置にいたような気がする。だけれども、違うのはアンニョイな雰囲気の中に強く発信する「何か」があったのだ。
だけどそれが今でも何かは分からない。
評論家ならきっと70年代の文化論にまで話を拡げて解説するんだろうけど、難しくて勘弁して欲しい。僕らには秋吉久美子を眺めているだけで充分伝わる「何か」だけでいいような気がする。
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