[コメント] 十二人の怒れる男(1957/米)
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小学校の学級会のような議論無き多数決は民主主義とは似て性質を全く異にするもの。民主主義の要は議論にあるのだと思う。疑問や反論をぶつける者があって、初めてそれは正しく機能していると言えるだろう。自分の利害と関わらぬ事柄について、名も素性も知らぬ他人同士が議論するという陪審制の場はまさに民主主義の本質が試される場だ。
「完全」ではなく「最良」を模索するという点は民主主義の大きな欠点でもあり、最大の功績でもあると思う。映画では最終的に、「有罪は疑わしい」という見解一致を以って、十二人は「無罪」の結論で合意する。確かに何も解決していないかもしれない。しかし、肝心なのは安易に判断しなかった事にある。結論を急かす罵倒の中、「ちょっとおかしいんじゃないか?」と立ち止まらせ、議論が始まった事で当初は考えられもしなかった方向に結論が転がる。議論前の結論と議論後の結論、どちらが正しかったかは分からないが、「やれるだけの事をやった」という大きな充足感が残る。この映画で繰り広げられた戦いを「無駄な議論をした」「過ちを犯した」と非難する事など誰にも出来ないだろう。
誤解を恐れずに言ってしまうと、こんな映画は甘ったれた御都合主義映画だ。現実はこれほど甘くないのだから。限られた時間で皆が次々と新しく着想し、議論がテンポ良く進むような事などまず無ければ、「三番」や「十番」以上の偏見を我々誰もが抱えているし、「七番」「十二番」のような無関心・無責任で多数派に身を委ねる快楽の味は誰もが知っている。ここで示されているのはあくまで期待される姿としての民主主義であって、どれだけその可能性を活かし切れるかは現実に生きる我々への課題である。ラストシーン、「九番」の老人と名乗り合って(今まで名前が全く登場していなかった事を思い出させられて、驚いた!)、何事も無かったかのように去って行く「八番」ヘンリー・フォンダの背中に輝くのはまさにアメリカ民主主義の良心。監督シドニー・ルメットのアメリカに対する熱い希望の眼差しに感涙した。実際のアメリカにもこの真剣な想いに恥じぬ国であって欲しかったが、悲しい事ながら、現在それは叶わぬ状況にあるかもしれない。
民主主義に生きる者には常に思考を働かせる義務があるだろう。人間を限界から見据えながらも、その可能性を信頼した愚直な民主主義に我々は応えなければならない。その民主主義にしっかりと応えてもらうためにも。
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