コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 十二人の怒れる男(1957/米)

理想が描かれた映画。
24

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 「人の生死を5分で決めて判決が間違っていたら?」

十二人の怒れる男』はある意味で形を変えたエンターテイメントだと思う。多くのアクション映画やパニック映画のように始めは主人公(フォンダ)は劣勢でありながら徐々に覆していく過程。視点は常に勝者からのものだ。

と言うのは無罪派が多数になったときあたり以降から、無罪派=善に対し有罪派=悪のような感覚を受けるため(既に指摘なさった方もいらっしゃいますが)。

しかしこれには理由がある。無罪派はフォンダを筆頭に曲がりなりにも合理的なのに対し、有罪派はE・G・マーシャル(眼鏡の男)を除き発言や行動が非合理的であるためだ。

12人で展開される熱い論争。だが正確には「九人の怒れる男」とも言える。偏見に満ちたE・ベグリー、同様に私情をはさむL・J・コッブ。そして最悪なのが早く終わらせようとするJ・ウォーデン。彼ら3人はディベートに参加しているとは言い難い。単にその場にいるだけ、他人の意見など耳にも貸さない。

だからE・ベグリーが偏見丸出しの発言をする場面。皆は無視する。自分の言いたいことだけ言おうなんて都合よすぎるじゃないか、との意味をこめて。

観客は無罪派が次々に‘敵’を議論で合理的に潰していくところにある種の爽快感を得るだろう。そこにエンターテイメント性を見るわけだが、私は『裁きは終わりぬ』という作品を思い出した。「十二人の怒れる男」から娯楽性を抜き、隠れている陪審制度の危険性を考えた点で。

結局はフォンダVSマーシャルの構図である論議、しかし犯人は誰か、少年の実際の罪の有無は描かれてもいないし重要な事でもないようだ。

「偏見」は一つのキーワードである。ベグリーを始め多くの者が偏見に満ちた発言をしている。差別まではいかなくても偏見抜きで考えるのは難しい。特に彼等に泣かされたような人間は−意識も高いだろう。何なら日本に置き換えて考えてみてもいい。正直に言えば私もベグリーの発言には一部賛成する。そして友人との雑談や井戸端会議程度の場所で事件を語るぐらいなら、一定の範囲内ならばそういったことも許されると思う。

しかし十二人は陪審員である。

最も重要なのは彼らは一人の人間の生死を左右できることだ。その権利について明確に認識しているか否かが、物語で言うところの善悪を分けるポイントとなる。

フォンダ「This isn't a game! 人の命がかかってる」老人「人の命をもてあそぶ権利はあなたにはない!」のセリフにあるように真摯に問題に取り組む男たち。また、有罪派ではあるがマーシャルも私情を捨て冷静に自体を見据えている。

反対にハナから決めてかかり議論などお構いなしの男たち。彼等に認識などない。仮に有罪の判決が出されたとして、果たして自分の命が見ず知らずの人間たちによって、それも仕事や野球に行きたいからという理由で断たれるとしたらどうだろう?

それでもこの映画の長所は十分に話し合いが成されたことだ。フォンダ等は陪審員(制度)に求められるものを誠実に体現している。熱い議論「十二人の怒れる男」は一種の理想である。

だとしたら現実は?

(評価:★5)

投票

このコメントを気に入った人達 (25 人)kirua Santa Monica けにろん[*] HW[*] makoto7774[*] ナム太郎 あき♪[*] フランチェスコ[*] 甘崎庵[*] さいた[*] ihishoujyo[*] かっきー WaitDestiny[*] takud-osaka[*] shaw peacefullife[*] ジャイアント白田[*] Kavalier ろびんますく ぴち Amandla![*] muffler&silencer[消音装置][*] torinoshield[*] にくじゃが モモ★ラッチ[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。