[コメント] 清作の妻(1965/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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上映早々,この作品が★6に値するだろうということは確信できた。以下,この作品が★6に値するとの判断に強い影響を与えた点について。
この作品においては,大映のオープニングロゴから監督増村保造のクレジットが表示されるまでに,周囲からの搾取に耐える若尾文子演じるおかねの痛ましい姿が淡々と映し出される。この間,若尾文子は全くといって良いほど言葉を発しない。好まざるも特段の抵抗を示すことなく不幸を受け入れる態度は,ただ一人遠くを見つめていた冒頭の姿に象徴されている。
このような態度も,物語の舞台が生まれ故郷の村へ移されたあたりから変化する。その変化の中でも最も注目すべきは,田村高廣演じる清作と藁の上で愛の告白を交わした後,立ち上がった若尾文子が振り返り様に見せる笑顔である。おそらく劇中初めての笑顔ではないか。このショットは数秒しか持続しないのだが,観ているものに鮮烈な印象を植え付ける。
このショットから後,二人が肉体的な関係に入ったことを仄めかすシークエンスが始まるのだが,ここからの若尾文子の演技は特に素晴らしく,後の常軌を逸した行動に対する十分な説得力を持ち合わせている。また,このショット以前に展開された上述の不遇な環境とこれに対する静かな忍耐が,その演技の有する説得力をさらに補強している。ただ,かような名演を前に,相手役の田村高廣の演技が霞んでしまったことは否定できない。
終盤,清作は,おかねの愛深きゆえに,自らも愛する彼女によって両目を潰されるという悲劇的な結末をみる。この結末を「おかね=若尾文子」という類まれなる美女に愛された罰とみることも可能だろうが,そう解釈するのはちょっと一面的に過ぎるか。ただ,この直前清作の呟いた「家族の顔を二度と見れない気がする」という言葉に,何の予言性を看取しないわけにはいかないだろう。この言葉を耳にするなり,何かに憑かれたように呆然とした表情で戸外へ向かい,落ちた五寸釘で掌をゆっくりと突く若尾文子!
ここから本作品での大きな見所の一つであるおかねの逃走が始まる。 逃走といっても,若尾文子は逃げる意思を表情にあらわしてはいない。虚ろな表情でただ駆け抜ける。それを追う非情なキャメラ。文字通り総毛立つ瞬間だ。その後,おかねは村民に捕らえられ、必要以上の暴行を受ける。女一人に男が数人。その際,キャメラは馬乗りになった村民から裾の捲れたおかねの足を抑える村民を映す。この場面であえてセクシャルな暴力を演出しようとした増村保造の村民らに対する視線は侮蔑に満ちている。本作品全体を通じて感じたことではあるが,既存の価値観に基づいて臆面も無く他者を糾弾しようとする人間に対する強い敵意がここにある。
おかねが逮捕された後,清作は自らの両目を突いたおかねに呪いの言葉を吐き,おかねが帰ってきたらどうするつもりなのかという質問に対しても不穏な空気を漂わせる。しかし,何も言わないまでも清作の本心は,おかねが繋がれているであろう牢獄を想像しているあの非現実的かつ抽象的なシーンに既に表れていた。重量感のある太い鉄鎖が接写され,次にその鎖の先には拘束部との摩擦で血だらけになっているおかねの足首が映し出される。背景はなく,亡霊のように周囲をうろついている他の囚人と同じように,ただ鎖を引きずるおかねの姿。このような姿を想像している清作に,私はおかねへの憎しみを読み取ることはできない。なお,この時,田村高廣が座っている部屋の照明は,上記シーンと湯気を媒介としたその接続と相俟って,絶妙で素晴らしいものがあった。
また,冒頭から繰り返し用いられる西洋的な雰囲気を湛えた旋律も,泥臭くなりがちな日本の村落に対し,舞台としての悲劇的格調を与えるのに多大な貢献をし,これによって均整のとれた西洋的な顔立ちの若尾文子がさらに映えた。
最後に,一つ二つ不満も言ってみようという気になったのでその点について。
・20歳という設定にしては,若尾文子の声と雰囲気は落ち着きすぎていて,違和感があった。もっとも,村に帰ってからはその違和感は解消された。
・刑期を終えて帰ってきてからのおかねは罪を詫びるにしてもどこか他人行儀で,物足りなさを感じた。
・敵役の紺野ユカが弱い。せっかく意地の悪い顔をしているのに勿体無い。悔しいといって泣き叫ぶところは良い。蹴りはもう少しまじめに入れるべきだったか。
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