[コメント] 清作の妻(1965/日)
増村映画の独自性、それは、彼の語るものが観念のドラマだというところにある。彼の映画はしばしば現実離れして見えるが、そもそも彼の関心は現実の上にはなかったのだから当然だ。彼の描きたいものは、あくまでも、人は如何に生き得るかという観念であり、その観念が現実との間に散らす火花だった。そこに、二十歳の時に経験した敗戦という価値の転倒が影を落としていたのは間違いない。最高級のエリート教育(旧制一高から東大法学部)を受けた人間として、彼は敗戦の意味を問い続けたといえる。
そのこと自体が戦後の風潮の中ではかなり異端なことだった。何故なら、軍事的にも経済的にもアメリカに依存した戦後の日本では、敢えてそうした難問を自らに問い掛ける必要はなかったのだから。依存が経済的利益という果実をもたらすようになってからは、なおのことだった。多くの監督たちが、現実世界で生きる人々を描写する腕の洗練を競っているか、でなければ、観客を別世界へ誘う魔法の開発に勤しんでいる時に、彼は現実そのものを厳しく問うドラマを作り続けたのだった。
勿論、彼はいつも成功していたわけではない。むしろ、この映画がそうであるように、何か突飛な印象を与える失敗作に終わることの方が多かった。そして、結局は彼が現実に敗れたのも事実だった。観念論といえば端的に言って「儲けにならない話」と同義語でしかない高度経済成長の世相の中で、彼の作品が次第に苦渋の色合いを深めていったことを見ても、それは明らかだ。
しかし、それが問題だろうか?彼は生きること(死ぬこと)とは戦うことであると知っていたし、事実、戦い続けた。その戦いは目には見えない、人の心の中で戦われる戦いだった。増村は、映画という虚構の力を武器に戦後の現実を撃とうと、本気で試みていたのだ。だからこそ、彼の映画は今も古びていない。その硬質な観念性で観る者を挑発し続けている。その戦いの軌跡は人の心を撃たずにはいられないものがある。
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