[コメント] 天空の城ラピュタ(1986/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
□Z宮崎アニメ(※1)
封切り当時、宮崎駿の作品に対して持っていた印象と期待は「軽妙なアクション」、「圧倒的な高品質」といったものだった。一人のティーンエイジャー(自分)の目には、『ナウシカ』の持つ文明批判といった部分を、まだ明確には見い出せていなかったように思う。
飛行機で、鉄道で、キャラクターたちの軽妙なスラップスティックが繰り広げられる。しかし、崩れていく道や線路、屋根の上、といったシチュエーションなら、『カリオストロ』や『コナン』どころか、東宝まんがまつりの昔から、何度も楽しませてもらってきた光景だ。
そもそも、スラップスティックという手法自体がミッキーやドナルド、トムとジェリーから連綿と続く定番の手法で、どれほどの高品質に大スクリーンで展開したとしても、現代では“小ネタ”の域にとどまってしまうのではないだろうか。
映画的、アニメーション的な動きのエンターテイメントの展開なら、こういった見せ方よりも、宮崎が自己否定している『カリオストロ』のように、カーチェイスあり、銃撃戦や格闘があり、といったものに“アクション”としてのワクワクやドキドキを期待したくなる……といった「期待」は、よりエスカレートした形での刺激を求めるといった、一種の感覚のマヒなのかもしれないし、そういった「マヒ」こそ、宮崎駿が常々言うところの「嘆き」に繋がるのだろう。そういう意味では、私は宮崎作品の良き観客ではないのかもしれない。
もちろん、シータがパズーのいる街にやってくる、あるいは二人で空から落ちるシーンの落下感や飛翔感は、この後どんどん完成度(と評価)を高めていく宮崎的表現技法の一つの端緒で、そういった技術的なものには、再三目を見張らされることになった(前者では、飛行石が輝くのをやめたとたんに『コナン』的になってしまったけれど……)。
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※1:前年、『機動戦士ガンダム』のテレビシリーズの続編『Zガンダム』がオンエア。第1話のオープニングが、ファーストガンダム第1話のそれを巧妙になぞってみせ、話題になっていた
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□閉鎖世界とマレビト
「残され島」、「カリオストロ公国」、そして「風の谷」。この作品で登場するパズーの住む街以前にも、宮崎作品には定番的なモチーフとして、「閉じられたコミュニティ」が登場する。そして、そこに物語をもたらすものは、ラナ、ルパン、ペジデ市の民であり、シータだった。
中世封建社会が終わる近代まで、国家としての鎖国体制以前の卑近な日常として、地域コミュニティそのものが閉鎖され自由な往来ができなかった日本社会では、広い時代と地域にマレビト(旅行者や、他の地域からやってくる人物、存在)信仰、あるいはその逆の排除といった文化、風俗があった。そういった歴史的な背景を基礎認識として共有する日本で、こういった語り口を持つ物語が多いのは今に始まったことではない(シータが従来の宮崎作品における水平型のマレビトではなく、垂直型だったことについては、ある種の分析ができるかもしれない)。
彼の作品に再三登場する「閉鎖されたコミュニティ」としてのパズーの街は、だからこそ奇妙な感覚を観るものに与え、異世界に対しての好奇心の対象として魅力的に描写されている。それは、カリオストロ公国や風の谷同様だ。同時にそれは、彼が嫌う“神の手(※2)”がフリーハンドを持ちやすい環境でもある、という考察を加えることも可能だろう(※3)。
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※2:拙コメント『もののけ姫』抜粋「宮崎は手塚の表現技法を「神の手」と称し非難した」
※3:この点についても同コメントで考察している
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□特種要素としての少女
宮崎作品における少女の存在や描写が、ロリータコンプレックス的なそれなのか、という議論はさておき、ラナが吾妻ひでおのロリコンマンガに再三登場していたり、そういったベクトルの対象としてのクラリスやナウシカは、当時既に定番的な存在になっていた。しかし、厳密に言えば、クラリスやナウシカは年齢的には少女性愛の範疇を逸脱している。
ところが、シータはラナ以来のその対象となりうる年齢(と思われる)のヒロインだった。そういったことも、宮崎作品における「特殊要素」としての「少女」の存在が、声高に語られるようになった理由の一つだろう。
私は『もののけ姫』に対する拙コメントで、彼の作品に見られる「性的未成熟」の存在のキーワードとして「少女(幼女)以外の女性の不在」「保護者以外の成人男性の不在」の2点を指摘した。しかし、この作品では成人男性であるムスカがあからさまな悪役、それも幼女を花嫁として収奪しようというわかりやすさで登場する。国家あるいは組織を背景として登場する悪、という点においては、個人の意志としてクラリスを手に入れようとしたカリオストロよりも、わかりやすい悪役、悪名だったとも言える。ここでは、少女性愛=悪という図式も確かに存在している。となると、前者の含みうる要素は、それほど強くはないと考えることも可能だ。
しかし、主要キャラクターの成人女性は老女のドーラしか登場しない、という前者後者を同時に満たす要素、そして息子達がそろってマザーコンプレックス的なマッチョとして描写されていることを考えると、ホモセクシュアル的な側面については、既にこのころから存在を主張し始めていたのかもしれない。となれば、やはりある種の「未成熟」の存在が、徐々に具体的な形を伴ってきたと考えることもできるだろう。
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※4:(以下拙コメント引用)宮崎作品における「少女(幼女)以外の女性の不在」、「父権的権威としての成人男性の不在」(それぞれ悪役としての存在や、擬動物化等を含む)が最終的に示すものは、その世界観を支える「性的な未成熟」の存在ではないだろうか。その未成熟は「性的サディズム(cf: 酒鬼薔薇聖斗)」のような、いわゆる「異常」性癖の形を為しえるものだが、彼の作品の世界においては、挫折的な性的指向が「幼児性愛」と「同性愛」の影、といった形に結実しているように思える。
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□最後に
ティーンエイジャーだったころの初見の印象を振り返りながら、いろいろと考察を加えてみたが、アニメーション映画として高水準な技術で作られた大変上質な作品だということは間違いない事実だ。そして、さまざまな要素の端緒は感じられるものの、後の宮崎作品のような大所高所からの視点や、物語性の欠如と技術的側面だけの先走り、インヴィジブルな性的未成熟の跳梁……といった要素はまだまだ大音声をあげているわけではない。
そういったことから考えて、私はこの作品を宮崎作品の一つの完成形として考えたい。
映画の日に、放課後自転車を走らせて、級友たちと映画館に行ったのを思い出す。まだティーンエイジャーだったころに、リアルタイムで初期の宮崎作品に接することができたのはやはり幸せだったと思う。帰りに飲んだ「ラピュタドリンク」はなんとも珍妙な味だったけれど……。
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