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[コメント] リリイ・シュシュのすべて(2001/日)

総ての「思春期」が持つ「陵辱され続ける事の美しさ」。
ヤマカン

 美しい。

 貧困な語彙を何度も搾り出しても、この言葉しか浮かんで来ない。暴力的なまでの美しさ。いや、これこそ、総ての「思春期」が持つ「陵辱され続ける事の美しさ」。

 同じ「中学生」というテーマでこの作品は塩田の「害虫」と並置する事も出来よう。まるでネガとポジ。勿論、宙ぶらりんの天才・塩田明彦と映画の娼婦・宮崎あおいが組んだ「害虫」こそネガであり、この「リリイ」がポジである。「害虫」は闇という胎盤に宮崎の肉体と血の匂いを染み込ませる。「リリイ」では、光が射精時の噴き零れる体液のようなハレーションで一片たりとも世界にその身を晒すまいと恐怖に打ち震えるシルエットに狂ったように襲いかかる。情け容赦ない光の陵辱を受ける少年、少女達。ストーリーを追うまでもなく、これは何人もの中学生達が男女問わず光にレイプされ続けている、その記録に過ぎない。

 手持ちカメラから伝わる欲情のたぎり、震えと共に、光という名の異臭を放つ精液を、「映像」だとか「同時代的」だとかいう逃げ場から飛び出して、岩井は遂に映画に浴びせ掛けた。

 他の氏の評で、「これまで作られてきた数々の作品が全て”ゴミ箱”に捨てられてしまうような感覚」 とあるが、しかし、仮に映画が100数年前「映画」となってしまったが為に「映画」で「あり得なく」なってしまったというのなら、それを「ゴミ箱」に捨てる事は当然の帰結。つまり、遅過ぎたのだ。

 この映画の中で唯一、光の犯罪から逃れられたもの、それが「文字」。  知覚の七割を占める筈の視覚が最早おとぎばなしと化し、インターネットやデータベース上の「文字」のみが≪「リアル」≫。そう論ずる事で岩井の「同時代性」を指摘するのはまた、実に易しい。  しかしこの「リリイ」が結局、視覚そのものの生々しく痛々しいオーガスムスに痺れている様を誰もが感じ得るのならば、これは正に東浩紀の論じる「見えるもの-見えざるもの」の二元論からの解放であり、現実とサイバースペースに「染み渡る」自我を生々しく捉えようという試みである筈だ。映画からの解放。それは「視覚」そのものからの解放。何もサイバースペースに逃げ込む事ではない。「染み渡る」自我が世界の隅々まで「触覚的に」触れ合う瞬間なのである。それが丁度恰も超時代的だと叫ばれている昨今、いや、それは実は、みんな体得して来た「当たり前の技術」なのだと、岩井は映画の肉体を貫きながら、不気味な程静かに諭すのだ。

 ≪「リアルだけが」≫。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] まー[*]

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