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[コメント] 耳をすませば(1995/日)

宮崎駿プロデュサーにとって、映画とは、飛ぶことと葛藤することなのだろうか。
Kavalier

宮崎氏による、原作付き映画としては2作目。ある程度対象に対して距離を置いたスタンスの作品。彼はたしかこう言っていた記憶がある「(モノローグの多用が多い)少女漫画は映画になるか? という挑戦です」。

中学生の平凡な日常を丹念に描いた原作(丹念に描きすぎてうち切りされたけど)から、主人公を空想世界で空を飛ばすことと、登場人物の等身大よりも少し大きな葛藤を持ち込むことが映画になるということでしょうか? 映画の歴史を持ち出すまでもなく、例えば、2時間の舞台が室内だけ(例えば、法廷であったり、会議室であったり)でも、ダイナミズムに満ちた作品をごまんとある。平凡な日常を丹念に描きながら、フィルムが躍動感に富んでいる作品もごまんとある。アニメーションだから、飛んで葛藤しろってのは乱暴じゃないでしょうか?

原作で私の好きなシーンがあります。主人公が、図書館でお気に入りのグラスをかけて、好きな本を読みながら、空想に耽るというシーン。このシーンは、空想している主人公を引いたコマの連続で捕らえて、主人公が空想(創造)していることのみを伝えるに止まっている。どんな空想をしているかは読者には分からない。しかし、映画になるとすっぱりこのシーンは切り捨てられ、主人公は図書館帰りに階段で、映像化された想像の世界の空を飛ぶ。

原作では、「想像すること」のみに焦点を当ているのに対して、映画では、表現のカメラが想像世界にまで入っている。

この原作と映画との差異点は、主人公が書く小説の表現方法にも強く反映されていて。原作では、「小説を書くこと」そのものに意味を見出して小説の中身にはほとんど触れていませんが、映画では、小説の中身にまで踏み込む。

映画を見ていて、原作が単なる実験に使われている気分がして少し不快になりました。

原作と切り離して見ろと言われかねませんが、表面上はまったく同じ話を展開している分、微妙なずれにはすごく居心地の悪さを感じました。

そして、葛藤を描くだけ描いて、最後は、「現実の希望」なるあやふやな物へ丸投げする。これは、『もののけ姫』の最後の、結論放棄と似ていないか。

テーマと、ストーリー(入れ物)のずれが気になって、ラストは唐突としか思えない。少なくとも、あれを若さが発露したものとして認めることは出来ませんでした。

(評価:★3)

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